鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

隠退牧師の徒然記 <46>

 

隠退牧師の徒然記(2011年6月1日〜)<46>
2012年1月16日 「固い食物をいただきつつ」
 

聖書の言葉
実際、あなたがたは今ではもう教師になっているはずなのに、再びだれかに神の言葉の初歩を教えてもらわねばならず、また、固い食物の代わりに、乳を必要とする始末です。乳を飲んでいる者はだれでも、幼子ですから、義の言葉を理解できません。固い食物は、善悪を見分ける感覚を経験によって訓練された、一人前の大人のためのものです。
ヘブライ人の手紙6章12-14節)



 昨日は1月15日であり、昔は15日と言えば「成人の日」として固定されていた。そのため昨日の礼拝説教でも「成人の日」に触れながら御言葉を示された。説教の導入の部分と重複するが、思いを記しておく。15日が「成人の日」であったが、祝日法案が決まり、日曜日とつなげるようになるので、毎年「成人の日」が異なるようになる。昔ながらの思いがあるので、今年は1月9日が「成人の日」であっても実感がわかないと言わけ。むしろ15日になると「成人の日」の実感がわくのである。「成人の日」の思いが薄らいだのは、現役から退き、隠退の身になっていることも原因になっている。大塚平安教会在任中は、毎年どなたかが成人式を迎えることになる。教会員の中でも成人式を迎える青年がおり、幼稚園の新採用の教師、また幼稚園卒業生たちが成人式を迎えるのである。15日に成人式を終えて、挨拶に来られる人がおり、その時にはお祝いのご祝儀を差し上げたものである。幼稚園の卒業生を思えば、送り出した子どもたちが、順次「成人の日」を迎えているのであり、その意味でも「成人の日」には卒業生の歩みを祈りたいのである。
 今年も各地で成人式が行われたことが報道されていた。代表の新成人が挨拶を述べていたが、やはり震災からの復興であり、この復興に協力する生き方を述べていた。もう随分前になるが、成人式が荒れ模様で、式にならなかったことが報道されていた。祝辞を述べているのに騒がしくて、市長だか町長だかが、途中で祝辞を辞めて帰ってしまったのである。当たり前だ、帰るべきではない、いろいろな意見が寄せられていた。最近はそのような状況にはならないようである。今年は特に震災からの復興に向かっているのであり、新成人も思いを一つにして復興のために働く決意を現していたことが希望となっている。
 成人すると言うことは、一人の人間として、責任ある人生を歩むと言うことである。この社会の中で、人々と共に生きること、そのために自分に与えられている能力、才能、力を発揮して働く、それにより社会の人々と分かち合いながら生きるということになるのである。大人になったのであるから、これからは子どもではないので、誰からも支配されないで、自由に好きなことをやって生きる、ということでは成人とは言えない。そのような姿は、まだ子どもから抜けきれないのであり、成人したとは言えないのである。成人すると言うことは社会の一員になるので、その社会に責任を持つということなのだ。ところが成人しても、責任を持たない人がいるのであり、いつの時代でも成人になれない人々いる。それにより暗い社会になり、困難な状況を生きなければならない人々が存在するのである。一方、成人しない人々は自由気ままに、略奪と私利私欲をむさぼりつつ生きる。世界の歴史を見るとき、どこの国にも成人出来ない人々の群れがいた。世界の歴史は、成人出来ない人々と成人した人々との戦いの歴史であると言える。そして、歴史の中に救いの存在が現れ、希望を持つようになるのである。
「成人の日」に送りだした幼稚園の卒業生の歩みを祈るのであるが、彼らには「聖書」という人生の基がある。ドレーパー記念幼稚園の園長在任中、毎年、卒業する子供たちに大塚平安教会から新約聖書が贈られる。その聖書の扉に園長というより大塚平安教会の牧師として励ましの言葉を書いていた。その聖書の扉には、贈る子どもの名前を書き、「地の塩、世の光となりますように」(マタイによる福音書5章13節、14節)と記し、牧師・園長の名前を記している。それは卒業生への祈りであり、「成人の日」もまたその祈りをささげるのである。
贈る聖書の扉に記すのは、毎年今の時期である。昔は園児が多くて、卒業する子どもたちが60名もいた。60冊の聖書に筆で記していくことは、かなり時間を要していた。しかし、贈る子どもの名前を記す時、園長としては深い触れ合いが無いにしても、やはり2年、3年と園生活を共にしたのだ。その存在は深く胸に刻まれている。筆を運びながらも、その子のことを示されつつ、そして祈りつつ書くのであった。ある時、いろいろとしなければならないことが重なり、聖書への記入が遅くなってしまったことがある。もはや3月になっており、卒業式も迫っていた。あわてて記入することになり、いつもはゆっくりと筆で記していたが、その時は万年筆で書いてしまった。早速、担任の先生から抗議がある。「いつも、園長先生の優しい筆字で書いておられるのに、今回は万年筆なんですか。子どもたちが可哀そうです」と言われたのである。忙しさの弁解を述べたのであるが、まさにその通りであり、深く反省したのである。その聖書を持つ卒業生の皆さんには、改めてお詫びするが、「あなたがたをお祈りしていることは、他の皆さんと変わらないのです」と申し上げておく。
「あなたがたは地の塩である。あなたがたは世の光である」と祈っている。この社会の中で力強く、社会の一員として存在することを心よりお祈りしている。