鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

隠退牧師の徒然記 <40>

 

隠退牧師の徒然記(2011年6月1日〜)<40>
2011年12月30日 「ごくろうさまと言いながら」 


聖書の言葉
見よ、このような日が来る、と主は言われる。わたしはダビデのために正しい若枝を起こす。王は治め、栄え、この国に正義と恵みの業を行う。彼の代にユダは救われ、イスラエルは安らかに住む。彼の名は、「主は我らの救い」と呼ばれる。
エレミヤ書23章5-6節)



クリスマスが終わったと言うとしたら、1月6日の顕現祭までクリスマスが続くので、不謹慎な言動になる。しかし、日本的にはクリスマスの諸集会が終わると、新年に向かうという思いが強い。大塚平安教会時代、クリスマス礼拝が終わって、年末にもう一度礼拝があり、歳晩礼拝をささげるのであるが、礼拝後はクリスマス飾りを片づけるのである。窓のステンドグラスをはずすと礼拝堂内は明るくなり、なんとなく清々しい思いになったものである。しかし、今年は歳晩礼拝がない。去る28日に大塚平安教会員の谷村盛久さんと勝子さん夫妻がお訪ねくださった。お宅でお餅つきを行い、わざわざお届けくださったのである。まことにうれしいことであった。その時、教会の様子をうかがったのであるが、今回はクリスマスが終わっても、そのまま飾っておき、1月6日以降に片づけるとか。それも結構なことであると思う。
何にしても集会が終わると反省会、感謝会を開くものである。いわゆる「打ち上げ」というものである。ご苦労様会であるが、教会では歳晩祈祷会で一年の感謝をささげるのである。また、歳晩礼拝では一年の歩みを振り返り、主の導きを感謝しつつ礼拝をささげていた。この世の習いで「打ち上げ」なるものはしないのが常である。何事も神様の導きなので、ただ感謝をささげるのみである。
とは言うものの、やはり一年の慰労をしたいのである。そんなことで「今年もご苦労さまでした」と言いつつ牧師の有志たちが集まった。12月26日である。毎年、クリスマスが終わると、最近は伊豆の河津に集まり、慰労会を開くのである。現役の牧師はクリスマスの諸集会で疲労がたまる。それで慰労会をすることになったのは、もう随分と昔になる。当初は七沢温泉や丹沢の麓にある鶴巻温泉中川温泉等に出かけていたが、牧師の中に伊東にある温泉旅館と知り合いがおり、わざわざ伊東まで出かけたのであった。ご苦労様は牧師ばかりではなく、お連れ合いも同じであるからと、夫婦同伴で開催するようになる。その時は、それぞれの夫婦の部屋を確保できたが、その後は団体で申し込む場合、夫婦ごとに部屋を確保するのは困難であり、男性と女性と別れて泊まることになったのである。当初は連れ合いの皆さんは喜んで参加したのであるが、次の年はほとんどのお連れ合いが参加しなかった。いろいろな理由があるのであろうが、そのため再び牧師だけの慰労会になってしまったのである。
「何も伊豆の河津まで出かけなくても、近くの箱根、湯河原、七沢でも温泉はあるのに」と言われながらも出かけるのは、河津にある「八重垣割烹旅館」は知り合いということであるからだ。もう十年以上前になるが、横浜の蒔田に料理屋さんを開いていた。その頃、私も神奈川教区の執行部を担っていたので、何かと神奈川教区に出かけることがあった。集会等が終わると、教区事務所に近い「八重垣」に行っては食事をしていたので、すっかり顔なじみになっていたのである。その後、伊豆の河津に転居し、割烹旅館を開いたことで、年末になると出掛けて行くのである。確かに遠いのであるが、知り合いのよしみというわけである。店主夫婦も我々を覚えているので、いろいろともてなしてくれるのである。
昨年は参加しなかった。もしかしたら11月から12月にかけてスペインに行くかも知れなかったからである。そして一昨年も参加しなかったのは、引越しの準備があったからである。年末に大きな什器備品を六浦の家に運んだりしたからである。従って、今回の参加は3年ぶりということになる。この年末慰労会は25年以上も前から行うようになっている。その頃はみんな働き盛りで、若い牧師の集まりでもあった。今回は7名が集まったが、ほとんどが70歳を超えていた。その中で隠退しているのは私だけで、他は現役なのである。もっとも牧師は隠退したが幼稚園の園長を担っている人もいた。「まだ、隠退するのは早いよ」と何人かの牧師に言われたが、「隠退牧師を三日続けたらやめられないよ」と答えたものである。早く言えば老人牧師の集まりになってしまったが、話題も体の健康に花が咲くというわけである。どのようにすれば体に良いとか、何を食べればよいとか、自ずとそのような話になって行くのであった。昔はお酒も結構飲んだものであるが、やはり少なくなっている。そして、9時頃には食事が終わり、間もなく寝ることにしたのである。昔は、それから部屋で遅くまで話しこんでいたものであるが、早々と就寝ということになった。いずれは一人ずつ抜けていくのであろう。今まで一緒に参加していた牧師達も、今は天にあり、あるいは病床についている人がある。年齢というものをつくづく感じる集いになっている。それでも、今年も集まって、互いに最後の働きを頑張っている様子を知るのであった。お互いにそれぞれの健康を心に祈りながら散会したのであった。




「八重垣」の案内看板



「八重垣」のたたずまい




今年は今回のブログが最後になる。いろいろな出来事があった。なんといっても3月11日の東北関東大震災であろう。4月と5月はスペイン・バルセロナでピアノの演奏活動をしている娘の羊子のもとに連れ合いのスミさんと次女の星子と三人で一ヶ月半、45日間過ごした。そして、帰って来てから6月1日付で日本基督教団に隠退届を提出し受理された。いろいろな歩みが導かれたと思っている。歴史を導く神様に心から感謝をささげている。隠退しても日本基督教団の教師であることには変わらない。新しい年は、それなりに神様のお導きがあるであろう。お導きに委ねて歩みたい。