鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

隠退牧師の徒然記 <39>

 

隠退牧師の徒然記(2011年6月1日〜)<39>
2011年12月28日 「ただこれだけの人たちで」 


聖書の言葉
彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先だって進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。
(マタイによる福音書2章9-11節)



今年は25日のクリスマスの日にクリスマス礼拝をささげるお恵みをいただいた。クリスマスのお祝いの日に、一人でも多くの人々が教会に来てほしい、その願いのもとにチラシを配布したり、ポスターを掲げたりして案内をする。案内の甲斐があって多くの人々が教会を埋め尽くした、ということにはならない。それでも24日の聖夜礼拝には、結構初めての人が来たりする。午後9時頃には聖夜礼拝が終わり、皆さんが帰っていくのであるが、10時頃になって教会に来る人もあったりする。カトリック教会では深夜にクリスマスのミサを行っているところがあるからである。プロテスタントの教会でも遅くまで礼拝やお祝いをする教会がないではない。聖夜礼拝には、教会員でも普段出席しない皆さんが来たりする。せめて聖夜礼拝には出席するというお導きがあるのである。
クリスマス礼拝は普段来られない人も出席するので、やはりいつもの礼拝より多くの皆さんが出席され、共にお祝いの礼拝に導かれている。その意味でもクリスマス礼拝は再び人々を教会にお招きすることができるので祝福の礼拝となるのである。しかし、大勢の人が共にクリスマス礼拝をささげる喜びと共に、少人数ながら祝福の礼拝をささげている群れがあるのである。
昨年は横須賀上町教会でクリスマス礼拝をささげ、皆さんとお祝いの会を開いた。小人数であったが、祝福されたクリスマスの集いであったと思う。私は教会から離れたとき、いろいろな場で少人数のキリスト者の集いに出会っている。4月5月にスペインに行ったが、バルセロナ日本語で聖書を読む会の皆さんと礼拝をささげる。二度ほど共に礼拝をささげたが、いずれも7、8名の皆さんであった。さらにマドリッド日本語で聖書を読む会でも礼拝をささげたが、やはり同じくらいの人数であった。これらの集会も、今年は少人数ながらクリスマスの喜びを分かち合ったことであろう。そして、六浦谷間の集会は基本的には二人だけの礼拝であるが、時には数人の皆さんが出席されるので、少人数ながら祝福された礼拝が導かれている。第一日曜日には横須賀上町教会の礼拝を担当しているが、いつも10名以下の出席者である。しかし、少人数ながら心から神様を礼拝できる喜びを与えられているのである。だいたいからして最初のクリスマスは、全くの少人数であったのである。マタイによる福音書ルカによる福音書の合成したクリスマスを考えても、お生まれになったイエス様を礼拝したのはマリアさん、ヨセフさん、三人の博士さん、数人の羊飼いさん達であった。まさに少人数の人々がイエス様を礼拝し、神様のお約束の成就をいただき、感謝し、喜びに包まれたのである。
クリスマスに多くの人々をお招きして、共に礼拝をささげることは大切なことである。しかし、導かれたものが、少人数であったとしても、そこに神様のお約束の成就が与えられているのである。神様のお約束とは、私たちがイエス様のお導きにより、日々喜びを与えられて生きることへと導かれていることである。クリスマスの喜びは少人数の礼拝から世界の隅々へと広まって行ったのである。その意味でも、六浦谷間の集会に神様は豊かなお導きを与えてくださっていると示されている。神様が共におられて小さな群れであってもお導き下さっているのである。25日の六浦谷間の集会クリスマス礼拝は、今までになく一番多い出席で8名の皆さんが集ったのであった。礼拝後はささやかなお祝いの集いを開き、主イエス・キリストのご降誕をお祝いしたのである。




四つのロウソクが灯されて。



祝会で楽しい食事をいただきつつ。



ケーキを美味しくいただき。