鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

隠退牧師の徒然記 <38>

 

隠退牧師の徒然記(2011年6月1日〜)<38>
2011年12月26日 「主がお生れの同じ月に」

 

聖書の言葉
このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」。この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
(マタイによる福音書1章22-23節)



今年は12月24日が土曜日であり、聖夜礼拝、燭下礼拝、キャンドル・サーヴィスが行われたのであるが、教会の牧師さん達はさぞや大変であったろう。翌日はクリスマス礼拝であったからである。大塚平安教会在任中の頃、もちろん準備は教会の皆さんがしてくれるのであるが、それでも何かと気を使いつつ聖夜礼拝に臨んでいた。礼拝が始まると、聖壇にいるので、もはや何もできないのである。壇上から気がついて、何かをしたくてもできないもどかしさを感じたものである。以前は燭下礼拝と称し、暗闇の中にロウソクが点火され、会衆の皆さんのロウソクにも点火されるが、ロウソクの明かりの中では説教の原稿が読めないのである。だから大きな字でメモ書きをしておき、それに従ってメッセージをお伝えしていたのである。その後、ロウソクの事故がいくつかあり、会衆のロウソクに点火されるのは、説教が終わり、聖歌を歌う時に点火するようになる。だから、講壇や周囲の電灯は点灯されていたのである。ロウソクの事故とは、ロウソクを手に持っていればよいのであるが、ロウソクを保護しているホイルを上手に燭台にしてベンチのテーブルに置く人がいて、それで前の人の髪の毛や洋服を焦がしてしまうのであった。そんなこともあって、ロウソクに点火するのは最後の讃美歌を歌う時にしたのである。教会はそれぞれの仕方で聖夜礼拝を迎えたことであり、祝福された礼拝であったと思っている。
ところで24日は聖夜礼拝であるが、我が家では誕生会を開いたのであった。イエス様のお生まれになった同じ月に、我が家では長女の羊子が21日に、次女の星子が9日に誕生している。羊子はスペイン・バルセロナにいるのであるが、彼女を含めて誕生会をしたのである。誕生会、クリスマスの祝会として行う。午後9時30分にはバルセロナの羊子にスカイプでお祝いを述べたのであった。今は、本当に便利なものができ、パソコンの画面に相手が写り、こちらの姿も相手が見ることができ、親しく話すことができるのである。メールのやり取りはいつもしているのであるが、スカイプではいつもというわけにはいかない。あらかじめ時間を打ち合わせておかなければならないからである。


24日は、実は私の長姉の誕生日でもあった。この日を迎えるといつも姉の日記が思い出される。私が牧師になる道を切り開いてくれたのは、私の長姉である。「私がお父さんとお母さんと暮らすから、あんたは家を出て牧師になりなさい」と励ましてくれたのである。神学校を卒業して、最初の教会は東京の青山教会であり、そこで副牧師を4年務め、その後は宮城県の陸前古川教会に赴任する。そこで6年半の牧会をする。もちろん時々は実家に帰っていたが、姉が両親と共に生活してくれていると思うと、安心して遠くの地で働くことができた。そして神奈川県綾瀬市にある大塚平安教会の牧師に赴任することになる。親の近くに来ることができてほっとした思いであった。赴任してまもなくであったが、姉がリュウマチを患うようになる。そのため、千葉の病院がよろしいと言うので、私が姉を車に乗せて連れて行ったりした。千葉の病院では一向に回復せず、病状は進んで行く。まず母が1989年に亡くなったが、その頃の姉の病状はそんなに悪くなく、病院で母の看病をすることができていた。父が亡くなるのは1995年であるが、その頃になると姉は病状が進んでおり、いろいろな病院に入退院するようになるのである。そして父の死から二年後に亡くなる。「お父さんとお母さんとは私が暮らすから、あんたは牧師になりなさい」と言ってくれた姉であり、母を送り、父を送って、自分の使命を果たしたと思いつつ天に召されたと思っている。手足が思うように動かなくなりながらも、毎日、日記を書いていた。12月24日の日記である。
 「6時15分起床。ここのところ朝とても冷える。今朝も3度位だった。寒くても早く起きれて感謝。父より早く起きてストーブをつけてお湯を沸かす。今日は私の誕生日。もう65歳になってしまった。人の年のように思える。退院後、元気になって誕生日を迎え感謝。神様の癒し、皆様のお祈りを心から感謝する。夕食にお寿司をとって父とささやかな誕生祝いをする。食前の祈りを私がする。父は『アーメン』と言ってくれた。年賀状を6枚書く。今日で終わる。今日も一日守られて感謝」。亡くなる3年前になっていたが、その頃も、かなり手足が不自由であったが、日常の生活をがんばってしていた。毎日、日記をつけ、終わりには「今日も一日守られて感謝」と記すのである。自分と言う存在は、神様のお守りに導かれており、皆さんがわたしの存在をお祈りしてくれているという喜びを持ちつつ歩んでいたのである。
 主がお生まれになった同じ月に誕生日を迎えている人は多いであろう。祝福が豊かにあるよう祈りつつ。