鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

隠退牧師の徒然記 <16>

 

隠退牧師の徒然記(2011年6月1日〜)<16>
2011年11月4日 「特別伝道集会に招かれて」 


聖書の言葉
わたしを強くしてくださった、わたしたちの主キリスト・イエスに感謝しています。この方が、わたしを忠実な者とみなして務めに就かせてくださったからです。
(テモテへの手紙<一>1章12節)


 隠退教師になると日本基督教団より、今はどこの教会に出席しているかとの問い合わせが来る。隠退教師でも教団の教師であり、その所在を把握しておく必要があるからである。六浦谷間の集会で礼拝を行っている、との回答はできない。六浦谷間の集会は、集会開始届を提出していないし、公的な集会ではない。そこで、毎月第一日曜日には横須賀上町教会の礼拝を担当しているので、出席教会にしておいた。隠退された牧師さん達はどこかの教会に出席されている。当初はそのつもりで、どこの教会に出席しようかと連れ合いのスミさんと話していた。しかし、私が礼拝の講壇で説教をすることもないのに、毎週説教を作成しており、これは実際に語られるべきだとして六浦谷間の集会を、連れ合いのスミさんと二人きりで始めたのである。知り合いの何人かの皆さんが出席されるようになった。特に近くの追浜にお住まいである大塚平安教会員の小澤八重子さんが、毎月第三日曜日には出席されるようになり、六浦谷間の集会の意義が与えられているのである。小澤さんは大塚平安教会には出席できないし、こちらであれば車で10分も要しないで来られるので、いつも娘さんが送り迎えしておられるのである。




薬円台教会のたたずまい。入りやすい教会である。



特別伝道礼拝の説教を担当する。


 そのようなのんびりした生活であるが、特別伝道礼拝にお出でいただきたいとのお招きが船橋市にある薬円台教会の古屋朝則牧師より打診があった。これは今年の2月頃かと思う。新年度の計画を作成しているのであるが、10月に特別伝道集会開催を年間計画に入れたいとのことであった。かなり先のことであり、思わず承諾の意を伝えたのであった。まだ先のことであったが、その10月まで伝道礼拝が心にあり、なんとなく落ち着かない日々であったと思う。ようやくその日がやってきた。
 10月30日、朝7時30分過ぎに家を出た。古屋朝則牧師のご家族とは私達家族もお交わりをいただいている。1973年4月から宮城県の陸前古川教会に赴任する。古屋牧師はそれから少し後に石巻山城町教会に赴任したのである。陸前古川教会も石巻山城町教会も東北教区宮城分区の仙北地区に所在した。仙北地区には七つの教会があり、交流を深めていた。年に一回は連合礼拝と称し、一つの教会に七つの教会の皆さんが共に集まり礼拝をささげ、お交わりを深めていたのである。交わりと言えば、牧師の家族の交わりが開かれていた。毎年1月の15日の成人の日には鳴子温泉に牧師家族が集まり、ゆっくり温泉に入り保養する。翌日は鳴子のスキー場で子供達を楽しませていたのである。そのような交わりがある中で、あるとき我が家が横浜の実家に帰省するにあたり、古屋先生のお連れ合いとお子さんたちもご実家が横浜にあるので一緒に出かけたのである。幼稚園のマイクロバスを私が運転し、鈴木家と古屋家の皆さんが宮城と横浜を往復したのであった。そんなお交わりがあるので、親しみが増しており、古屋先生からのお招きをいただいた時、懐かしさが先になってつい承諾してしまった感がある。そのため、連れ合いのスミさんも一緒に伺うと言うのは当然のことである。船橋まで車で行くことにしたとき、子供たちが心配して一緒に行くと言うのである。次女の星子は写真係りとして、三女の百合子は車の運転士として、そして友達の弥生さんと共に五人で伺ったのである。
 

薬円台教会は礼拝出席30名前後の教会である。住宅街の一角に建てられている。特別伝道集会としてメッセージを取り次がせていただいた。そのメッセージはブログ「御言葉に向かう」の10月30日の説教として公開している。礼拝後、皆さんの手作りでお食事をいただきつつお交わりをした。温かい皆さんであり、緊張もほぐれ、この温かさが午後からの講演会を励ましてくれたようである。午後2時からは講演会が開かれた。「存在の勇気」(あるいは私が生きる意味)と題してお話させていただいた。1時間30分もお話したが、皆さんが熱心に聞いてくださっていることを感じる。温かい教会員の皆さんの励ましで語らせていただいたのである。伝道の秋、収穫の秋である。薬円台教会がいよいよ祝福の群れであることを祈りつつ、そして古屋朝則・元子先生ご夫妻との再開を喜びつつ帰路に就いたのであった。