鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

隠退牧師の徒然記 <14>

 

隠退牧師の徒然記(2011年6月1日〜)<14>
2011年11月1日 「さがみ野ホーム召天者記念礼拝」 


聖書の言葉
こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪を金繰り捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。
ヘブライ人への手紙12章2節)。


 さがみ野ホームの召天者記念礼拝の式辞を担当することになった。2011年9月25日である。もはや大塚平安教会を退任しているので、私の務めではないが、後任の菊池丈博牧師が大塚平安教会の修養会と重なるので担当出来ないということであり、私に依頼されたのである。実は今までもさがみ野ホームの召天者記念礼拝と大塚平安教会の修養会は同じ日になっていた。私の場合は長年の牧師で、時間を何とかやりくりすることができた。修養会は日曜日の礼拝後、午後からである。開会礼拝を担当し、その後は発題と分団協議になるが、開会礼拝が終わるやさがみ野ホームに向かうのである。約1時間の召天者記念礼拝が終わるや、すぐに大塚平安教会に戻り、修養会に参加するのであった。菊池牧師は昨年10月から就任して丁度1年になる。その記念のときも兼ねて修養会の開催であるから、途中から抜け出すわけにはいかない。来年からは教会とホームが日程を相談して開催したらよいだろう。


社会福祉法人さがみ野ホームと綾瀬ホームは知的障害者の施設であり、キリスト教を基として存立している。従って、大塚平安教会の牧師が嘱託牧師として関わっているのである。さがみ野ホームは金曜日、綾瀬ホームは木曜日、それぞれ朝のうちに礼拝をささげている。葬儀も担当することになり、何かとホームとの関わりが深まるのである。さがみ野ホームは召天者記念礼拝には冊子を作成し、召天された皆さんの簡単な紹介をしている。さがみ野ホームは1979年8月に設立され今日を迎えているが、私が大塚平安教会に就任したのは1979年9月からである、1ヶ月後に嘱託牧師に就任しているのである。昨年2010年9月までの31年間、ホームの皆さんと共に歩んだのであった。召天者記念礼拝の冊子には56名の召天者の紹介が記されている。昨年10月から6名の皆さんが加わっているのである。残りの50名の皆さんの葬儀司式はすべて私ということではない。自宅で行われた葬儀もあるが、しかし大方はさがみ野ホームとして葬儀を行い、私が司式を担当したのである。
当初は召天者があるとさがみ野ホームの中で葬儀が行われた。だからホームにおられる利用者の皆さんがお別れの時をもっていた。しかし、今は斎場で行われるようになり、利用者は代表者が数人列席するようになっているのである。しかし、告別式が終わり、火葬場に向かう前に霊柩車がさがみ野ホームの庭に寄り、そこで皆さんがお別れするのである。
 


さがみ野ホーム礼拝。布に書かれた讃美歌を見ながら歌う。
以前は奏楽者を伴ったが、その後は奏楽なしで、牧師の歌声に合わせて歌う。
音程が外れているにしても。




さがみ野ホームだけでも多くの皆さんの葬儀司式を担当したが、綾瀬ホームの葬儀もある。両ホームで100名近い皆さんの葬儀を31年間で行ったのである。最初から葬儀社は興伸典礼であった。綾瀬ホームが指定していたようである。だから両ホームと教会の葬儀はほとんどが興伸典礼であり、教会の方針をすべて把握して担当してくれていたのである。何事も心得ていて、何も言わなくても興伸典礼が準備するのであった。顔なじみと言えば、大和斎場の担当者である。葬儀が終わると、私は先に大和斎場に行っている。霊柩車はホームに寄ってから斎場に向かうので、私より遅くなる。斎場で待っていると、担当者が私の顔を見るなり、「先生、ご苦労様です」と挨拶をするのである。今年1月28日に愛する小室正行君を天に送った。悲しいお別れであったが、きっと神様の祝福のうちにあるだろう。司式は当然菊池丈博牧師である。お骨上げのとき、斎場の担当者が「先生、しきたりがあったら教えてください」と私に向かって言うのである。「今日は、こちらの先生に従ってください」というのであった。
 召天者記念礼拝の司式の故に一年ぶりでさがみ野ホームの皆さんにお会いした。皆さんも私達夫婦を覚えていてくださり、皆さんも久しぶりの対面に喜んでくれたのであった。毎年、冊子を配布されては召天された皆さんを覚えること、天国への思いが深められるであろう。そして、いよいよさがみ野ホームの生活を喜びつつ送るであろう。