鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

隠退牧師の徒然記 <11>

 

   隠退牧師の徒然記(2011年6月1日〜)<11>
     2011年10月24日 「祈りの場を求めて」 



聖書の言葉
安息日に町の門を出て、祈りの場所があると思われる川岸に行った。そして、わたしたちもそこに座って、集まっていた婦人たちに話をした。(使徒言行録16章13節)



 2010年3月に大塚平安教会を退任し、4月から9月までは横浜本牧教会の代務者となる。10月からは無任所教師として過ごすことになる。時間があり、散歩をしては周辺の変貌を探索している。時には足を伸ばして鎌倉まで2時間かけて歩いていったりしている。江の島に久しぶりに訪れたことについては既に記している。
 去る7月3日の日曜日、午後になって観音崎灯台を訪れた。星子、百合子、友人の弥生さんと4人で出かけた。横横道路の朝比奈インターから、今は馬堀海岸ICまで伸びているので便利であり、我が家からそんなに時間を要しないで行くことができる。観音崎灯台を訪れたのは、もう随分と昔になる。小学生の頃、遠足がこの観音崎灯台であった。従って、60年以上の昔である。岩のごつごつした海岸の丘に白い灯台が立っているという記憶が残っている。観音崎灯台と周辺の海岸は、昔と変わらないと思うが、公園が整備され、楽しい場所が多く設置されている。ビジターセンター、ふれあいの森、森のロッジ、アスレチックの森、ふれあいの水辺、果実の森、花の広場、海の子広場、展望園地等、さまざまな憩いの場がある。




三浦半島は軍事遺跡がいたるところにある。
観音崎灯台の近くにある砲台跡。



駐車場に車を置き、灯台まで歩く。途中、北門第一砲台跡、北門第二砲台跡があり、戦争の面影を残している。覆いかぶさる樹木の道を歩くので、暑さをしのげる。そうこうしているうちに灯台に着く。白い灯台を見て、昔の記憶と重なるのである。以下、説明によると、観音埼灯台(かんのんざきとうだい)は、神奈川県横須賀市三浦半島東端の観音崎に立つ灯台。白色八角形の中型灯台で、日本の灯台50選に選ばれている。東京湾浦賀水道を照らし、東京湾海上交通センターとあわせ海上交通が輻輳する浦賀水道航路の安全に寄与している。また日本初の洋式灯台であり、この灯台の着工日を記念して11月1日が灯台記念日に指定された。初代の設計はレオンス・ヴェルニー等が担当したが、大正時代の地震により2度再建され、現在の灯台は3代目にあたる。周辺は県立観音崎公園となっており、自然環境が保護されている。



山あいにある弾薬庫。



1957年の松竹映画「喜びも悲しみも幾歳月」、木下恵介監督、佐田啓二高峰秀子主演の灯台守物語のファーストシーンに登場するのが観音崎灯台である。見学して、灯台から駐車場までは海岸沿いに歩いた。東京湾、房総半島を眺めつつのそぞろ歩きは楽しいものである。海岸に打ち寄せる波は、静かな動きであった。いわゆる、ざぶんと打ち寄せる波ではなく、小さく打ち寄せているのである。海の風景、海岸線の波等を見つめつつ歩いているうちにも、この海が恐ろしく変化することを思うのである。3月11日に発生した大地震、そして大津波は、平和な生活に襲いかかった。生活の場であった穏やかな海が、一変して襲いかかるのである。海も山も自然のたたずまいであるが、自然は生きているのである。変化がある。長雨で土砂崩れを起こす。地震津波が起きる。これらの自然の変化を知りつつも、自然の変化に対する対策が及びもつかないのである。宇宙にまで行くことができるようになっても、計り知ることのできない自然の力を知ることが出来ないでいるのである。



東京湾を眺める。房総半島も見える。



静かに打ち寄せる波。平和な風景であるが。




駐車場の近くに喫茶店があったが、もはや夕刻であり閉店となっていた。そのため、駐車場の近くにある公園で喉を潤しつつ休憩したのであった。ビジターセンターも閉館となっており、あまり人が訪れないのかなとも思うのであった。日曜日であるが、そんなに大勢の人が見学には来ていない。他にもたくさん楽しい所があるからである。人がほとんど居ない静かな公園は憩いの場であるが、むしろ、祈りの場ではないかと思う。日曜日の午後、半日修養会と称して、このような場所で集いを持ったらどうだろう。三々五々、共に祈りの場が与えられている。讃美歌を歌っても、周囲には人が居ないので、妨げにはならない。



静かなくつろぎ。祈りの場とも思える。