鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

隠退牧師の徒然記 <6>

 

  隠退牧師の徒然記(2011年6月1日〜) <6>
2011年10月12日 「生きる者になる」 


聖書の言葉
主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者になった。(創世記2章7節)



 スペインから帰ってきて、しばらくは散歩をしなかった。疲れが残っていたからである。しかし、最近は毎日散歩に出かけている。夏の間は、日中は暑いので、日が暮れて、夕闇せまる頃に出かけていた。陽が落ちても暑さは続いているが、それでも夕方は涼しい風が吹き、心地よさもあった。しかし、今は夕刻6時といえば暗くなっているので5時頃には出かけることにしている。スペインに行く前は1万歩を目標にしていた。達成させるために、かなり遠くまで歩いている。2時間近く歩くことになる。しかし、今は1万歩の目標は止め、だいたい1時間くらいを目標にしている。6千歩から7千歩くらいになる。体力が無くなっているのであろう。歩くコースは追浜方面、六浦方面のどちらかのコースである。
 



バルセロナ滞在中、地中海の海岸まで、1時間かけて星子と共に歩く。
建物は闘牛場であるが、今は開催してなく、他の催しで使われている。



 散歩に履く靴であるが、今は運動靴を履いている。昨年10月頃から散歩を始めているが、大塚平安教会在任中に買い求めていた散歩用の靴を履いていた。その靴で公的場にも履いて行かれるのである。散歩用に買い求めたのであるが、むしろ通勤用なのかもしれない。この靴を履いてスペインに行き、カタルーニャ音楽堂でのコンサートにも履いて行ったし、パリ訪問にも履いて行った。公的にも私的にも履けるのである。ところが最近はかかとの部分がすり減っていることを知る。もったいないと思った。それで古道具屋さんを覗いたら手ごろな靴があり、良く洗って、今は毎日履いている。1万5千円もした靴から、今は900円の靴を履いているのである。ほとんどすり減っていないし、とても軽快に歩けるのである。
 六浦方面を歩くと、最近開店したばかりのヨークマートという大型マーケットがある。側にあるクリエイトも最近出来たばかりで、この二店舗により、周辺の店が困っている訳である。クリエイトが出来てから、近くにあったサカイヤという薬関係の店がたたんでしまった。また、六浦駅を出た所に、この辺では唯一のキングストアーがあるが、この店も閉店になるらしい。この店は私の若いころから存在している。父や母の時代、姉の美喜子の時代を支えてくれていたのである。駅を降りて買い物ができるので、とても便利であった。
 ヨークマートは毎日にぎわっているが、人が多い状況であると、バルセロナ滞在中に繰り返し注意された盗難が気になる。開店してから間もなくスミさんと買い物に行った。買い物が終わり、外でポイントカードの申し込みがあり、早速スミさんが申し込んでいた。買ったものをどこに置いたのか。ふと見ると少し離れた場所にワゴンごと置いてある。外国であったら無くなっていたかもしれない。日本は治安が行き届いていると共に、公共の場では盗みは少ない。
 そんなことからバルセロナにおけるスリ事件を思い出す。サグラダ・ファミリアという観光地であるから、人が多く、諸外国の人々が訪れており、そしてまた、そういう場は悪の温床にもなるのである。娘の星子と二人で散歩していると、外国人の男女が何か言いながら近づいてきた。星子の髪の毛、私の背中に何かついているということで拭いてくれるのである。親切な人たちだなあと思ってお別れしたのであるが、しばらくしてズボンのポケットに入れていた携帯電話と70ユーロのお金が無くなっていたのである。実に鮮やかなお手並みだと思った次第である。感心する場合ではない。人が困ることをしてはいけないのである。悪とは自分中心に考え、人が困っても自分のために生きることなのである。人間は神様の息、すなわち神様の御心をいただいて「生きる者になる」のである。土で人の形が造られ、神の息が吹きいれられて人間となった記録は、そんなことは神話の世界であるが、聖書の記者は、それにより人間が生きるということを示しているのである。神様の息をいただかないのは、土のままであり、自分のことしか考えないのである。自分は神様の息をいただいている者である、と示されつつ歩むことなのである。散歩と人生を考えさせられたのであるが。

 
ところで、この10月は、一年前を振り返れば、横浜本牧教会代務者および早苗幼稚園園長を退任し、無任所教師になった時である。また大塚平安学園理事長を退任した時であり、日本基督教団総会書記を退任した時である。この10月から始まった無任所教師、隠退教師の生活なのである。その意味では記念すべき現在の原点になるのであろう。