鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

隠退牧師の徒然記 <1>

 

隠退牧師の徒然記(2011年6月1日〜)<1>
2011年10月1日 「隠退牧師となる」 


聖書の言葉
エリアはそこをたち、十二軛の牛を前に行かせて畑を耕しているシャファトの子エリシャに出会った。エリシャは、その十二番目の牛と共にいた。エリアはそのそばを通りすぎるとき、自分の外套を彼に投げかけた。(列王記上19章3節)。
<注>
エリアがエリシャに自分の外套を投げかけたのは、役目の引き継ぎの意味がある。


 2011年6月1日付で隠退届を日本基督教団に提出した。昨年の9月まで横浜本牧教会の代務者を担ったが、10月からは無任所教師になった。そして、ついに隠退届を提出したのである。あるいはどこかの教会から招聘があったら考えても良い、とは無任所教師になりたての頃の思いである。ところが無任所教師として生活しているうちに、この生活が体に染みいり、もはや牧会に立つ気構えが消失してしまったのである。他の教会から招聘の打診があったことは事実である。しかし、また引越しをすること等考えられず、六浦の自宅に住みながら、通いの牧師なら引き受けても良いとの条件は、教会は喜ばないのである。横須賀上町教会は、今は代務者を立てて歩んでおり、私は第一日曜日の礼拝を担当している。その横須賀上町教会の牧師になってもらえないかと要請された。合わせて幼稚園の園長も担うということである。礼拝を担当し、説教を担当することは喜びとするところであるが、もはや日常の牧会、幼稚園の業務を行う気力が薄らいでいる。そのためお断りしたのであった。「○○は三日やれば止められない」との言い方があるが、無任所教師を三日やれば止められないのである。結局、それが隠退へつながって行ったということである。
 6月13日付で隠退承認書が送付された。それには日本基督教団の石橋秀雄総会議長の名で一文が添付されていた。
「主の御名を賛美いたします。このたび神奈川教区を通して届出のありました先生のご隠退を別紙のとおり承認いたしました。ご隠退にあたり、宣教の御業のために尽くされましたことに深く感謝申し上げます。1969年に青山教会担任教師として就任し、それ以来、陸前古川教会主任担任教師、登米教会兼務主任担任教師、大塚平安教会主任担任教師、横浜本牧教会代務者として、42年の長きにわたりお働きくださいましたことを感謝いたします。また教団書記としてお働きいただきましたこと感謝いたします。先生の多くのお働きを主が深く嘉してくださることと信じます。これからのご生活の上に主の豊かな祝福と平安をお祈り申し上げます。感謝をもって一言ご挨拶申しあげます。主にあって。」

隠退承認書を手にしたとき、教師の務めが終わったわけではないが、長かった現役を退任したという安堵の思いが募ったのである。導きがあれば50年でも60年でも担ったであろう。しかし、72歳の年齢は体力的にも、精神的にも負担を感じるようになっている。御言葉に向かうことでは、まだまだ深めたいと思っているのであるが。




日本基督教団からの感謝状



隠退と合わせて日本基督教団年金局へ年金申請を行った。日本基督教団は年金局を設け、隠退教師に対する助成を行っている。牧師は厚生年金をかけているが、比較的低い謝儀における公的年金は低いのである。教団はそれを補正する意味でも教団年金制度の働きをしている。先日、その年金局から機関誌「よろこび」と教団年金受給者名簿が送付された。その名簿を見ていささか驚く。現在、年金受給者は教師511名、遺族266名である。合計777名である。こんなに大勢の皆さんが年金をいただいているのである。申請したことに負い目を感じるのであった。教団書記を担っているとき、年金局の資金確保の並々ならぬ努力を示されているからである。また、各教区、教会も年金を支えるべく献金をささげている。また、並行して「隠退教師を支える一口百円運動」もあり、全国の信者の皆さんが隠退教師を支えているのである。年金局は資金をどう増やすか、市場を見据えながら資金確保に奔走しているのである。そのようなご苦労を知っているので、当然の権利のように年金を申請することに、負い目を感じるのである。しかし、これは神様のご褒美としていただくことにしたい。だから、御言葉に仕えることであったら、時と場所を選ばないで仕えることにしたい。



今も、毎月第一日曜日には横須賀上町教会の礼拝を担当している