鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

スペイン滞在記 <37>

 

スペイン滞在記(2011年4月4日〜5月18日) <37>
2011年4月28日「バルセロナで考えさせられたこと」
 


昨日、午後11時過ぎに、なにやら物音が始まった。そんなに近くでもないのであるが、どかんどかんとの音がしている。そして、街中のあちらこちらがにぎやかになっている。ベランダに出て見ていると、花火が上がっていた。北側の方で上がったと思うと、南側、東側からも花火が上がり、バクチクの音がする。自動車の警笛のような音もしている。日本で言えば夜中なのにと思う。羊子が、バルセロナのサッカーチームが勝ったからだと説明してくれた。バルセロナには「バルサ」と言うチームがあり、バルセロナの星なのである。試合に勝ったときには、このときのように大変な騒ぎになると言う。警笛のように聞こえたのは、サッカーの応援で使う笛であると言う。こちらのサッカー熱は大変なものである。日本でも応援するチームがあり、やはり熱狂的な応援をする。しかし、こちらはサッカー一筋のようである。日本には相撲、野球、サッカー等、やはり全体的に好みのスポーツがあるが、こちらには野球も相撲もない。マドリッドのチームに勝ったのであるからなおさらだ。
 昨日は持参した「孔子」を読み終え、その感想なるものを書いた。まさか、こんなに早く読み終えるとは思わなかった。1ヵ月半も時間があるので、ゆっくり読んだつもりであるが、読み出すと熱が入り、止められなくなってしまったのである。本は「孔子」と文藝春秋4月号しか持参しなかった。それで羊子の書棚に、アレッサンド・バリッコ著「海の上のピアニスト」(白水社)が並んでいるので、この際読むことにした。「この際」と言うのは、私の書棚にもこの本があるからである。白水社の本は、結構楽しい童話があるので、今までも買い求めている。私の書棚には「片目の狼」、「豚の死なない日」、「かもめに飛ぶことを教えた猫」、「ライ麦畑でつかまえて」等が書棚に並んでいるが、これらは読んだものの、「海の上のピアニスト」は読んでいなかった。同じものを羊子が持っていたので、今日は出かける予定もなく、今日一日で読むことができた。
 これは戯曲方式である。大きな客船が港に着いたとき、乗客が皆下船する。しかし、船の中で、ホールのような部屋のピアノの上に、ダンボールが置かれている。その中に男の赤ちゃんが入っていたのである。海の上で生まれたのであるが、そのまま置き去りにされてしまったのである。一人の船員が、自分の子どもとして育てるのである。次第に成長するが、いつの間にかピアノを弾くようになり、それが名ピアニストなのである。ある日、街の有名なピアニストが挑戦するが、主人公にはかなわないのである。やがてその客船は戦争のため病院船となる。それでも主人公は船に乗ったままである。彼は船に乗ったままで、一度も地上に降りたことはなかった。一度、その気になり、船のタラップを二三段おりかけたが、引き返してしまったのである。その船もついに廃船となる日がやってくる。ボロボロになってしまったからである。船にはダイナマイトが積み込まれ、沖合いで爆破するのである。彼は降りなかった。海の上で生まれ、海の上で死んだピアニストだったのである。
 悲しい物語であるが、ストーリーは船乗りの言葉で荒々しく進められていく。主人公は海の上しか知らない。地上に降りたこともない。船の上が生活の場であり、いわば彼の地上なのである。だから「海」を知らないのである。海とは陸から眺める時、そこに海があると確認するのであるが、海の上しかいない彼にとって、「海」を見たことがないのである。それで海を見るために下船しようとしたができなかったのである。「井戸の中の蛙、大海を知らず」との日本のことわざがあるが、実際に視野を広げるためにも、自分の場から離れることは大切なことでもある。私などは典型的な「海の上のピアニスト」なのかも知れない。その意味で、今回、バルセロナを訪問し、ここで生活できたことは、自分の場から離れたということなので、大きな意義になるのである。
 スペイン人、バルセロナの生活、いろいろな違いを知り、実際に経験する時、自分の世界で絶対と思っていたことが崩れていく。そこに新しい成長が導かれるのである。