鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

スペイン滞在記 <35>

 

スペイン滞在記(2011年4月4日〜5月18日) <35>
2011年4月28日「『孔子』を読む」
 


バルセロナに発つにあたり、滞在中に読もうと思って、井上靖著「孔子」(新潮社・文庫本)を持参した。単行本で書棚においているが、重量の関係で文庫本を購入した。文庫本で501頁もあり、読み進むには時間を要する。毎日、少しずつ読んでいたが、昨日ついに読破した。そのため、バルセロナ滞在中であるが、読後の新鮮なうちに感想を書いておくことにする。
 小説家の井上靖さんの著書については、あまり読んではいないことを告白しておく。ただ、以前、「化石」を読んでいる。そのときの印象が心にあり、時々思い出しては、人間の一面を示されていた。「化石」の主人公は外国で癌の宣告を受け、日本に帰国するに当たり診断書を書いてもらうのである。自分は死ぬことになっているとは、主人公が常に持っている思いである。診断書を持って日本に帰国し、いつ病院に行くか、日々思い悩むのである。行けば、改めて癌の宣告を受け、余命何日間を受け止めなければならないのである。そのような日々をかなり長く過ごすのである。自分は死ぬとの思いが固定観念になって行く。そして、ついに病院に行き、改めて検査を受けるのである。検査結果は、癌ではなかった。今まで、自分は癌であり、死ぬとの観念で過ごした主人公は、癌ではないと知らされた時、気が抜けてしまうのである。死ぬと思っていたのに、死なない。何をする気力もなくなってしまうのである。化石のように、形だけ残った人間になってしまうのである。そのような内容であったと思う。
 「孔子」は、孔子の生涯を書くという伝記小説ではない。また、歴史的なことを扱ったものでもない。孔子といえば、孔子の教えをまとめている論語に集約されるが、その論語ができる発端がこの小説に示されている。孔子とその高弟といわれる人たちの残した言葉を、架空の弟子が思い出しつつ語り、新たなる解釈を与え、さらに孔子研究会ができ始めて、その人たちが孔子の言葉を出しつつ、架空の弟子がその言葉と思い出を語るのである。解説者・曾根博義さんによれば、「作家として80歳に達した著者自身には、人生についての自分の考えを『人類の教師』である孔子や語り手のエンキョウを通じて読者に語りかけたいという積極的な気持ちもあったにちがいない。そのために読者は、この作品を通じて、小説という面白さを味わうと同時に、著者自身の究極の人生観を知ることができる。むしろそれが著者の狙いでではなかったかと考えられる」と解説している。まさに、孔子の架空の弟子・エンキョウを通して井上靖の人生観が示されているのである。
 今まで孔子について向かう機会がなく、どのような人物か知らなかった。哲学者、教育者、思想家としてしか理解していなかったのである。しかし、『孔子』を読んで思ったことは、確かに思想家であり、哲学者であったが、野心家ではないかとの印象を持った。架空の弟子エンキョウの理解は、孔子が楚の昭王との会見を長い年月を通して待ち望んでいた。昭王と会見し、平和の道を示すことが目的であったと架空の弟子・エンキョウは考えていたのである。ところが後にその考えを訂正するのである。孔子が昭王と会見を望んでいたのは、高弟の子路、子貢、顔回のいずれかを仕官させるためであったということである。孔子は戦乱の世に生きて、平和を願い、指導者達に平和を作り出す道と方向を教えようとしたのである。その戦乱の世の中で人間とは何者かを模索し、天との関わりを見出そうとしたということである。少なくともそのことが、『孔子』から読み取ったことである。井上靖の人生観を示されたということである。
孔子は紀元前551年〜479年の人である。この頃といえば、聖書においても戦乱の世であり、預言者たちが神様の救いと哀れみを述べ伝えていた時代でもある。同じ戦乱の世において、一方はこの世の移り変わりにおける人間の悟りを示し、一方は根源的に神という絶対者の意思を得ようとするものである。前者は人間の意志にとどまるが、後者は神の意思として、普遍的に示され続けていくのである。そしてキリストの出現となり、その救いの業が壮絶であるがゆえに、人々がそれを形に、音に表していくことになるのである。論語は人を教えて余りあるが、人間を変えるものではない。聖書は新しい人間を作り上げていくということである。