鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

スペイン滞在記 <25>

スペイン滞在記(2011年4月4日〜5月18日) <25>
2011年4月22日「聖金曜日
 

昨日は洗足木曜日であり、教会ではミサが行われる。羊子が出席して奉仕している教会に出席する予定であった。出席というより見学のためである。日本にいれば、このような機会がもてないのである。受難週ミサを見学したことは参考になったし、カトリック教会の、特に受難週や復活祭のミサを見ておきたい希望を持ってこちらに来たのである。そのため、旧市街見学を終えて5時には帰宅したのである。せっかくプロのガイドさんが案内してくれているので、他もご案内していただきたかった。しかし、私がその予定を持っており、山田さんもカトリック教会の信者さんなので、私の都合ばかりではない。ピカソ美術館を後にして地下鉄に乗り、サグラダ・ファミリア駅に降りた後は、そこで山田さんとはお別れし羊子の家に帰ったのであった。一息ついたとき、やはり出かけた後は疲労が残る。結局、行かないことにした。スミさんも星子もまだ体調がよくなく、横になっていることもある。星子はどうやらウィルス性の風邪である。私からスミさん、そして星子にうつって行ったようである。午後10時頃に教会から帰ってきた羊子から、洗足木曜日ミサについて聞いた。ミサの中で、信者の代表6人が洗足すると言う。まず神父さんから足を洗ってもらった人が、今度はその人が次の人の足を洗うのだという。そのようにして次々に足を洗いあうということであった。日本のプロテスタント教会の中には、このような洗足木曜日の礼拝をしているところもあるだろう。しかし、多くの場合、受難週礼拝後の一週間は、水曜日または金曜日に受難週祈祷会をする程度である。先日の受難週ミサはお祭りであるので大勢の子供や大人が出席したが、洗足木曜日ミサは、熱心な信者が出席し、それほどの出席者ではないという。
 


洗足ミサ



互いに足を洗い合う



今日は聖金曜日である。午前8時頃に起床したが、他の人たちはまだ就寝中である。朝のひと時、まだ朝食には間があるので、一同が起床するまで、持参した井上靖著「孔子」を読んだ。聖人といわれる孔子は2500年前の中国春秋時代末期の人(前551年〜前479年)である。毎日少しずつ読んでいるが、スペインにやってきて、残された芸術作品、文化を示されながら、両文化というものをつくづく示されることになる。もっとも孔子の時代と西洋芸術の時代は異なる。両時代を並べて考えるならば、聖書の時代はイスラエル民族がバビロンに滅ぼされ、その後の捕囚解放時代に匹敵する。その聖書の時代も孔子の時代と同じように戦国時代である。中国もその後文化遺産を持つことになるが、西洋の文化遺産はキリストの出現が基となるのである。そこに大きな違いがあると思う。後日、両者を対比しながら考えをまとめることにしよう。その意味で、この旅行に「孔子」を携えてきて良かったと思っている。
 バルコニーを後ろに、つまりサグラダ・ファミリアを後ろにしながらソファーに座って読書していると、その後ろの方から音がしてきた。スピーカーを通しての、なにやら女性の声である。しばらくすると男性の歌い手が聖歌を歌っているようである。午前9時頃である。その頃になると家族の者も起きてきて、この物音に皆で教会を見つめる。受難の門の入り口に何人かの人がおり、聖金曜日のミサを行っているようである。公園の樹木がさえぎっているのでよく見えない。出かけていって目の前で見ようかと思ったが、今日は朝から小雨が降っていたので、ここからしばし見つめることにした。そばに行っても言葉が分からないのである。しかし、聖金曜日のミサをしていることは確かである。サグラダ・ファミリアの見学者は午前9時前から並び始めるので、順番を待つ人たちの伝道にもなるのであろう。とはいえ、見学者は世界の人たちであり、スペイン語が分からない人たちも多くいるわけである。聖金曜日が特別な日であることを示すことも大きな意味があるだろう。




聖金曜日サグラダ・ファミリア(聖家族贖罪教会)


こちらでは受難週の一週間はお休みのところが多い。商店は開店しているが、聖金曜日は日曜日なみにお休みである。キリスト教国であるということをしみじみと示されるのである。夜は聖金曜日ミサが行われる。羊子が出席して奉仕している教会でもミサが行われるが、奏楽なしで静かにささげられるというのである。