鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

スペイン滞在記 <24>

スペイン滞在記(2011年4月4日〜5月18日) <24>
2011年4月21日「ピカソ美術館」
 

結局、星子は具合が悪く、羊子が迎えに来て帰って行った。星子とともにカテドラルを見学した時、私の思いを修正しなければならなかった。カテドラルといえば大聖堂との理解であり、一つの建物として理解していたのである。日本では、目白にあるカテドラルは聖マリア教会である。しかし、山田修平さんの説明では、カテドラルとは司教がいる場所を言うのであり、一つの教会をさすのではないということである。だから、カテドラル周辺の教会に関係する建物も含めて呼んでいるのである。そのカテドラルに近いところに州立建築学校がある。その建物の三面の周囲の壁にピカソの壁絵がはめ込まれている。三面の南面は「メルセーのお祭り」、東の面には「闘牛の様子」、西の壁には「ラ・サルダナの踊り」が描かれている。



ピカソの絵がはめ込まれている州立建築学



ピカソも出入りしたという「4GATS」レストラン



ピカソはカタルニヤをこよなく愛し、そのためいたるところにピカソが見え隠れしている。この州立建築学校から近いところにレストラン・バール「四匹の猫」がある。山田さんに案内されてその店にも行ってみる。「四」という数字は「言葉を四つしか言わない」「友達が四人しかいない」との意味で「少ない」ことを意味するという。従って「猫四匹も入らない」という意味になるのであり、かえってそれが面白いということで名づけられた店なのである。ところが芸術家達が集まるようになり、ピカソも出入りしたということである。ピカソが四匹の猫を描いてポスターを作ったこと、店のメニューにデッサンしたりしたといわれている。今では大勢の人たちがこの店を利用するようになったということである。
 さて、羊子と星子と分かれてからは、私一人がプロのガイドさんに案内されて見学することになった。もう3時を過ぎているので、ピカソ美術館だけは見学することにした。例によって入場者がチケットを買うため並んでいる。もし並んだとすれば、ずいぶんと時間を要することになる。山田さんが事務所に回り、プロのガイド証を提示すると、係りの人が私と共にチケット売り場に案内してくれた。チケットは6ユーロである。山田さんはガイドであるので無料である。ピカソといえばいくつかの美術館で作品を見ているが、なんだか分からない絵画の印象しかない。しかし、今回の見学で思いを改めさせられた。なんだか分からない絵画はピカソの晩年の作品であり、本来は純粋な絵画を描いていたのである。ピカソ1881年、スペイン南部アンダルシアのマラガ市に生まれる。美術の教師である父親と共に、14歳の頃バルセロナに移り住むことになる。幼い頃から父親の影響で絵を描いていたという。そして、早くも世の注目を浴びる。「初聖体」、「慈悲と科学」の作品はピカソが15歳、16歳の時に描いたものである。それぞれ賞を得ることになるのである。実際にそれらの絵の前に佇むとき、絵画のあらゆる技法を駆使し、卓越した作品であることを示される。「初聖体」とは幼児洗礼を受けたものが、10〜12歳になると堅信礼をうけ、初めて聖餐を受けることである。妹ローラの初聖体を描いたものである。「慈悲と科学」は臨終を迎えた婦人がベッドに横たわり、医者が患者の脈を取っている。もう一方の傍らには看護婦に抱かれた女の子が母親を見つめているという構図である。こと細かく描かれており、16歳の少年が描いたとは思われない。この絵を見ることにより、私はピカソ観がすっかり変えられてしまった。その他、ピカソには肖像画が多く、いろいろな人々の姿を描いている。
 ピカソは93歳で亡くなるが、この美術館だけでも膨大な作品が展示されている。幼年期、少年期、青年期の作品は、単なるスケッチでも母親が保存していたので、それらはすべてこの美術館に寄贈されている。また、結婚した後も夫人が保存していたものなどが寄贈されている。絵画ばかりではなく、セラミック作品等も多数展示されているのである。残念ながら、これらの作品は門外不出であり、海外で展示されることが無い。だからピカソに対しては誤解している人が多いのではないか。私もその一人なのであるから。大体、箱根の彫刻の森にあるピカソ館によってしか、ピカソを知らなかったのである。
 旧市街はまさに芸術のとの印象を深めて、ゴシック街を後にした。