鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

回想の30年(3)( 祈りの度に感謝し )

 大塚平安教会にて30年6ヶ月間、牧師として勤めましたが、いくつかのことを思い起こしています。それは総括とか、成し遂げたことを拾い出すのではなく、回想であり、自分としての懐かしい思い出にすぎません。
 思い出深いのは教会の墓地建設もその一つでありました。もともと大塚平安教会は1964年に川崎市生田にある春秋苑内に墓地を取得していました。しかし、教会から車でも電車でも1時間以上あり、墓参をするには遠距離でありました。また墓地は三角地帯であり、そこに納骨堂を建設するのは困難でもあったのです。そのため、敷地だけの墓地でありました。それでもそこには4人の方が埋葬されていたのです。以前より教会墓地建設の委員会がありましたが、私が就任後、改めて墓地建設委員会が設置されました。1979年に就任しましたが、それから間もなく委員会が設置されたのです。委員会は春秋苑内の墓地建設を含めながら、比較的近距離の墓地も検討していました。協議をする中で、厚木霊園が浮上してきました。教会から30分もあれば行かれる距離であり、丹沢山塊に囲まれた場所は、まさに適した場所でありました。教会はそこに墓地を建設することにしたのです。1982年8月27日に献墓式を執り行い、春秋苑に埋葬されている方を改葬したのでした。就任して3年後には教会墓地を建設したのですから、教会の皆さんは、よくも牧師を信頼し、その設計等お任せいただいたものだと思っています。実は前任の陸前古川教会時代、やはり墓地建設に取り組みましたが、設計等は専門の方に依頼していましたので、直接関与しませんでした。完成を見ないまま転任してきたのです。そのような思いがあるので、全面的にお任せいただきましたので、祈りつつ設計し、完成へと導かれたということです。相模メモリアルパークには諸教会の墓地が立ち並んでいます。比較するわけではありませんが、大塚平安教会の墓地を誇り高く思うのでした。
 この墓地には教会員、関係者等の人々を埋葬しており、11月の墓前礼拝では墓誌に刻まれている皆さんのお名前を読み上げています。その時、いつも思うことは、やがて私の名が墓誌に刻まれ、読み上げられるということです。退任にあたり、私の埋葬はこの墓地にしてくださいと教会の皆さんにお願いして来ました。厚木霊園に教会墓地を建設し、献墓式、改葬式をしてから間もなく、笠倉正道君の埋葬式を行いました。21歳の若さで召天された笠倉君の存在は、就任後間もなくの出会いであり、教会の祈りを結集したと思っています。就任してから1年半を経たとき、笠倉君が牧師を訪ねてきたのです。ドレーパー記念幼稚園の卒業生であり、今は大学受験浪人中であるということでした。勉強に疲れたと言っては訪ねてくるようになったのです。春を迎え、大学に合格したのですが、そこで腫瘍があることが発覚し、入院生活になりました。私は毎週木曜日の午後になると横浜市大病院に入院している彼を訪問していました。二人で聖書を読み、信仰談義、哲学論争等、いろいろなお話をして過ごしていました。彼の病状は悪化して行きました。そういう中で、彼は教会員ではなく、礼拝にも出席していなかったのですが、一人の青年が求道しつつ病魔と闘っていることを説教の中でお話するようになりました。教会の皆さんは一度も会ったことが無いのに、順次お見舞いしてくださり、彼を励ましてくれるようになりました。教会上げて笠倉君をお祈りしていたのです。就任間もない私の牧会において、皆さんが結集していることを示されたのです。教会墓地が完成した1982年8月より約二ヶ月前の7月1日に召天されたのでした。そして、この墓地に埋葬されたのでした。
 就任後間もなくの墓地建設と笠倉正道君の出会いは、30年間の牧会の基礎となりました。その基礎とは大塚平安教会の皆さんのお祈りなのです。このお祈りが牧師と牧師家族を支えてくださり、30年間も長きにわたり牧会することができたのです。ただ、ただ感謝であります。
<聖書の言葉>
私達は、祈りの度に、あなたがた一同のことを神に感謝しています。あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、主に対する希望をもって忍耐していることを心に留めています。
(テサロニケの信徒への手紙<一>1章2節、3節)