鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

回想の30年(1)( 多くの人が仲間に加わり )

 
 昨日は昨年3月28日の大塚平安教会における最終礼拝について記しました。30年間6ヶ月を回想するには、紙面が足りないでしょう。要所のみにとどめて記しておくことにしました。
 そもそも私が大塚平安教会の招聘をいただくのは、仲介者として岩粼隆牧師の存在がありました。宮城の教会に赴任しつつも、もし機会があれば神奈川県の教会に移りたいとの思いを岩粼牧師に話していました。彼とは清水ヶ丘教会で、中学・高校生の頃から交わりがあり、いわば親友でもあったのです。1979年5月に全国教会幼稚園連絡会の園長会が箱根で開催されました。その頃、陸前古川教会では幼稚園を併設していましたが、園長は教会員が担っており、私の職務は幼稚園の設置者でした。そして、同教会最後の一年間は登米教会を兼牧し、登米幼稚園の園長を担うことになったのです。そのため教会幼稚園連絡会の園長会に私も出席したのでした。会議中に岩粼牧師から連絡があり、大塚平安教会の牧師が退任するにあたり、私を推薦しておいたということでした。当時の乙幡和雄牧師に連絡を取るようにとのことでした。早速連絡し、私が箱根に来ていることを伝えると、ぜひお寄りいただきたいとのことになりました。それで私は会議の途中でしたが、大塚平安教会の乙幡牧師をお訪ねしたのでした。その後、乙幡牧師は招聘委員会に私を候補者として紹介されました。数人の候補者がおられたようです。私が神学生時代に東京西荻窪の曙教会に出席していたことから、大塚平安教会には気仙三一先生が出席されており、気仙先生は元曙教会の牧師であったことから、私についての情報を聞かれたと聞いております。このような中で候補者が私に絞られ、招聘委員会の皆さんと面接することになったのでした。面接といっても、お料理屋さんで一緒に食事をしつつの懇談でありました。7月には大塚平安教会は招聘総会を開催し、決議してしまったのです。私についてはお見合い説教もなく、紹介だけで決めてしまったのですから、随分と思いきった決断であったと思います。乙幡牧師は6月で辞任されていますので、早い就任が臨まれたのでしょう。私も箱根から帰って間もなく、陸前古川教会と登米教会に辞任を申し出ました。そして8月末に辞任することが決まったのでした。従って、大塚平安教会は7月と8月間の二ヶ月間無牧になりました。その間、地区内周辺の牧師に講壇をお願いしました。その頃、長内敬一神学生がおられ、二ヶ月間の無牧を事務的にも担ってくださったのであります。
 大塚平安教会には1979年9月より就任しました。就任後、私を招聘する総会、役員会の議事録を読むと、決めては「朴訥な牧師で、大塚平安教会にはふさわしいのではないか」ということでした。そうか、あまり能弁になってはいけないのだと自戒しつつ牧会にあたったのですが。当時、青年たちが活躍しており、大塚平安教会の歴史において青年たちが活動した最盛期であると思っています。教会学校も子供たちが多く出席していました。幼稚科、小学科、中学科と三つに分かれて礼拝をささげていたのです。婦人会も若い皆さんが多く、良い活動が導かれていたと思います。壮年会はいつの時代も少人数であり、活動を模索していたことは今と代わりません。それでも少人数ながら、何かと教会行事の中心になって活動していました。驚いたことは、9月の第一回の礼拝が終わり、玄関でお帰りになる皆さんにご挨拶をしていましたら、一人の方が洗礼を申し出られたのであります。乙幡牧師には申し出そびれてしまい、今日は思い切って申し出ましたということでした。私自身その方を知りませんし、求道の状況を知りません。12月のクリスマスまで待っていただき、洗礼式を執行したのでした。この洗礼は30年間の大きな励ましになりました。送別会の時、司会者が私の牧会した年月で洗礼を授けたのは77名であると報告されていました。洗礼者の数は牧師の評価にはなりません。しかし、こんなに多くの人が主の道に導かれたことは感謝であります。
<聖書の言葉>
ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に3千人ほどが仲間に加わった。彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。
使徒言行録2章41節、42節)