鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

巨大地震(5)( 主があなたを憐れんで )

 
 東北・関東大震災は三重苦をもたらしました。巨大地震による建て物の崩壊、大津波の発生で多くの人命を奪い壊滅を与えたこと、そして原子力発電所の災害です。東京電力福島第一原子力発電所の1号機、2号機、3号機が共に破損し、危険な状況になっています。3号機が爆発し、2号機も爆発して高濃度の放射能が拡散したと報じられています。東京でも放射能が観測されたということです。外の空気を家の中に入れない、外出から帰ったら洋服をはたいて家に入るようにとか、対策が報じられています。被害が大きくならないよう食い止めているようですが、そう願っています。
 もともと原子力発電所に対して反対する人々が多くいたのです。しかし、原発の能力が優れ、原発があるからこそ日本の電力事情が賄われているとの主張でした。しかし、根強い反対運動がありました。この度の事故は原発保有に対する深い反省を持たなければなりません。もう原発は放棄すべきです。外国のある国は放棄の方向であると報じられていました。原発は力もあり、文化を担う最先端のものです。しかし、文化を担うあまり、人間が忘れられているのではないでしょうか。事故があれば、どうなるかを知りながら文化が優先されているのです。
 前週の礼拝における聖書日課は主イエス・キリストの荒れ野の試練でした。荒れ野において悪魔の誘惑と闘ったイエス様を示されたのであります。一つの誘惑において、悪魔はイエス様を高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せます。そして、「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう」と言い、もし悪魔を拝むならと言うのでした。その時、イエス様は「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と聖書に示されている言葉を持って答えたのでした(ルカによる福音書4章)。悪魔の誘惑を退けたのです。この世の栄華、繁栄を優先するということは悪魔を拝むということになるのです。さらに、一人の存在を大切にするイエス様です。イエス様は汚れた霊に取りつかれた人に出会います。この人は汚れた霊により暴れるので、人々は鎖で縛っていたのです。しかし、この人は鎖を引きちぎり墓場を住み家としていました。その墓場で叫び続けていたのです。ここは多くの人が眠るところでありますが、誰も彼を咎めないからです。イエス様が彼と出会ったとき、この人の中にいる汚れた霊が叫び出します。イエス様は汚れた霊に、この人から出て行けと命じます。汚れた霊は、豚の中に入らせてくれと言うのです。イエス様はお許しになりました。するとそこには二千匹の豚がいたのですが、豚は驚いて湖の中に飛び込んでおぼれ死んでしまうのです。イエス様は二千匹の豚を犠牲にして一人の存在を救われ、導かれたのです。豚を飼う人たちは大きな痛手であり、これ以上、豚が犠牲になることを恐れ、イエス様に退去するよう申し渡すのでした(マルコによる福音書5章)。この聖書の示しは大切なことであります。文化を優先するのか、一人の存在を大切にするのか、多くの場合、この社会は文化を優先するのです。原子力発電所は危険極まりないことを知っていながら、その優れた能力、文化を支える道具として受け入れてしまうのであります。その文化優先が行き詰まっています。この際、原発は廃止にすべきなのであります。
 大地震と大津波の災害にあった人々の状況が刻々と報じられていますが、いまだに救済の手が差し伸べられていない状況を悲しく思います。早く、どうにかならないかと思っているのは、皆さんも同じ気持ちです。地震の国として、災害時の訓練は日ごろからしていることは報じられていました。しかし、この度の災害は想定以上のものであり、誰もが予測できないものでした。だからこそ、万全を期しなければならないのです。原発は絶対大丈夫と誰が考えていのでしょうか。絶対ということは、人間の世界ではないのです。
一人の存在、人間の存在が、まず優先されることこそ平和の基なのであります。
<聖書の言葉>
自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。
(マルコによる福音書5章19節)