鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

巨大地震(1)( 目を覚ましていなさいと )

 
 大変なことになりました。読売新聞の12日の新聞です。「11日午後2時46分、三陸沖を震源とするマグニチュード8.8の国内観測史上最大の巨大地震が発生、北日本から関東にかけて強い揺れと津波が襲った。気象庁によると宮城県栗原市築館で震度7仙台市など宮城県各地、福島、茨城、栃木各県で震度6を記録した。震源の深さは10?。この東日本巨大地震により最大10mに達したと見られる津波や多くの火災が発生、読売新聞の集計では、午後7時半現在、岩手、宮城、福島、茨城、栃木、千葉、東京などで少なくとも死者35人、負傷者、行方不明者多数が出ている。岩手県釜石市、大船渡市などでは津波により家屋400戸以上や車が大量に流され、同県山田町で死者多数との情報があり、大船渡市末崎町の細浦地区は全体が津波に流され壊滅状態という。福島県相馬市の海岸線でも土砂崩れが相次ぎ、行方不明者が多数出ている。」
 12日の朝刊ですから、その後の情報はさらに甚大になっています。原子力発電所の緊急事態宣言も出されています。テレビもラジオも地震の被害状況を繰り返し報道しています。その後、長野、栃木、神奈川でも地震が発生したと携帯電話のメールに送られてきました。
 この日記は12日の朝に書いています。昨日は地震発生と共に停電になってしまったからです。午後2時40分になって、いつもの通り散歩に出かけました。自宅は少し高台にあり、ゆるい坂を下りた所が市営住宅です。何やら音が聞こえてきました。ふと市営住宅の建物を見ると揺れているのです。立っている場所も揺れていることに気がつきました。かなり揺れており、これは散歩どころではないと、すぐに引き返しました。家に入ると連れ合いのスミさんが心配しており、電話しようと思っていたところであったということでした。テレビを見ようとしたら停電になっており見ることができません。それで携帯ラジオをつけて情報を聞いたのです。地震も大変ですが大津波がやって来ると報道していました。4m、5m、10mにもなるということであり、三陸海岸ばかりではなく太平洋側の海岸はすべて津波警報が発せられていました。この時点では情報が集められてなく、部分的に災害状況を報じていました。ラジオは繰り返し地震の情報を流していました。
 最近は陽が長くなり、6時を過ぎてもまだ明るいのです。それでも早めに夕食を取ることにしました。しかし、停電になっているので、こういう時は電化住宅は困ります。クッキングコンロはIHなので使えません。スライド式の戸棚も使えません。従って、石油ストーブが唯一のコンロです。スミさんはお鍋でご飯を炊いていました。食事をするときは、もはや外は暗く、ローソクをともし、懐中電灯の中での食事でした。ローソクはクリスマスに使ったキャンドルがダイニングにおいてあったので、丁度良かったです。大塚平安教会にいる頃、永年信仰者に皆さんが色紙にサインをして贈り、記念品はキャンドルでした。信仰の灯をともし続ける意味からです。そのキャンドルにも働いてもらい、食事の間を明るくしたのでした。懐中電灯は、日ごろから用意していましたので、すぐに使用することができました。ローソクの明かりの中で食事をすること、戦争中のことが思い出されます。私は戦後初めての小学校1年生ですから、戦争中の生活については、かなり記憶に残っているのです。食事が終わり、相変わらず停電が続いているので、パソコンも使えず、テレビも見られず、読書もできず、こうなったら早く寝てしまうことにしたのでした。寝ながらもラジオを聞いていましたが、やすむことにしました。10時30分頃にスミさんに起こされました。電気が通じたということでした。テレビをつけていたときに地震で停電になり、通電したらテレビの音が飛び込んできたというわけです。
 被災している皆さんには心からお見舞いを申し上げます。
<聖書の言葉>
だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏のなく頃か、明け方か、あなたがたには分からないからである。
(マルコによる福音書13章35節)