鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

灰の水曜日( 救われる者の力となり )

 
 昨日の3月9日は「灰の水曜日」であり、この日から「レント、四旬節、受難節」が始まります。昨日の日記に記そうと思っていたのですが、レコードプレーヤー騒ぎで、そちらが中心になってしまいました。今日は昨日の思いを記すことに致しましょう。
今年のイースター(復活祭)は4月24日になります。その前日の4月23日までの40日間、主イエス・キリストの受難を仰ぎ見つつ過ごすのです。しかし、40日間の中には日曜日は含まれないのです。すなわち、イエス様のご受難は私のためであり、罪を赦し、新しい命を与え、福音の喜びをいただきつつ、現実を神の国として生きる者へと導かれるのです。クリスマスは毎年12月25日に決められていますが、イースターは毎年異なります。歴史を通じて、イースターをいつにするか協議されてきました。毎年、3月21日の春分の日を迎え、最初の満月になったら、最初の日曜日をイースターにすることになったのです。従って、お月さんの出方で決まるというわけです。今年のイースターはもっとも遅くなっています。そのため降誕節が長く、今週の日曜日まで主イエス・キリストの宣教を示されていました。イエス様の教え、癒し、奇跡等の福音を示されてきたのです。3月9日に灰の水曜日を迎えたので、次の日曜日は受難節第一主日になります。イエス様の受難のメッセージをイースターまで示されるのであります。
「灰の水曜日」と言うことですが、聖書では「灰」は苦しみを現します。旧約聖書ヨブ記において、義人ヨブが苦しみのどん底になったとき、灰の中に座り、その苦しみを現すのです。ヨブは信仰深い人でした。しかし、サタンは「ヨブが信仰深いのは、神様がお恵みを与えているからだ」と神様に言うのです。旧約聖書では、サタンは天使の一人であり、神様のお許しが無ければ悪いことはできません。サタンは神様のお許しを得てヨブを苦しめます。しかし、ヨブは「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」、「わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸をもいただこうではないか」と言い、神様を呪うことはありませんでした。しかし、ヨブは灰の中に座り、その苦しみを尋ねたのです。以上はヨブ記1章、2章に記されます。エレミヤ書6章26節にはこのように記されています。「わが民の娘よ、粗布をまとい、灰を身にかぶれ」と示しています。人々に敵なる者が迫っている状況において、それは神様を信じない審判でもありますが、破滅へと向かっていることを嘆きなさいとしているのです。灰をかぶるということは、苦しみを現し、悲しみを現しているのであります。主イエス・キリストは十字架への道を歩み続けます。それは苦しみと悲しみの前進でありますが、人間を救われる道なのです。灰をかぶるということは、イエス様の苦しみを受け止めることであり、その苦しみは私のためであると示されることなのです。スペインにいる娘の羊子が知らせてくれましたが、カトリック教会で「灰の水曜日礼拝」を行い、出席者は頭に灰を被せられるということです。わずかの灰なのでしょうが、灰をかぶったことの意義を示されるのでした。
受難節がはじまると、克己の生活が求められます。イエス様のご受難にあずかり、自らも十字架の道を歩むのです。大塚平安教会時代、一人の信徒の方が、受難節がはじまると禁欲の生活をするようになるのです。甘いものがお好きであり、祈祷会が終わるとお茶が出るのですが、甘いお菓子などは食べないのでした。ビールなども嫌いではないのですが、いっさい口にしないということでした。しかし、抜け道があります。40日間の受難節には日曜日は含まれません。従って、日曜日に甘いものを食べても禁欲を破ったことにはならないということです。牧師がこんなことを教えて良いのかなあ。とにかく、受難節、レント、四旬節の40日間は、主イエス・キリストの十字架の救いを仰ぎ見つつ歩みましょう。今日は説教になっちゃったなあ。
<聖書の言葉>
十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。
(コリントの信徒への手紙<一>1章18節)