鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

ミシンの日に( 永久に人々の記念となり )

 
 今日は「ミシンの日」だそうです。そんな日があるなんて初めて知りました。もっとも、適当に定めたのでしよう。朝、車のエンジンをかけると、「今日は○○の日です」とカーナビが案内します。3月4日だから「ミシン」と読むのでしょう。時々、いくら考えても、○○の日の意味が分からないことがあります。「今日は何の日」と言うことで、歴史上の事件や人物の生誕日・記念日等を紹介することは知られています。カーナビが決めている「○○の日」は、面白いにはちがいありませんが、あまり実物とは結びつかないように思います。しかし、おかげで「ミシン」について思いを馳せることになりました。
 我が家の玄関を入ると、昔のミシンがどっしりと置かれています。足踏み式であり、機械の部分は収納されていますので、その上は物置台にしているのです。昔のカメラ、天秤棒の秤等、骨董品を並べています。その上の壁には、これも骨董品のぼんぼん時計がかけてあります。この時計については12月1日の日記に記しています。今日はミシンを思い出しつつ記しています。このミシンは長姉の美喜子が使っていましたが、他の二人の姉たち、私までも使っていました。長姉は若いときに洋裁学校に通ったと思います。何かと自分で洋服を仕上げていました。かく言う私も、真似ごとながらミシンを使いました。中学生の時、帆船を制作しました。人にお見せするには恥ずかしい出来栄えです。その帆船の帆をミシンで作ったのです。その他にも何かと作ったと思いますが、何を作ったのか忘れました。その後、神学校に入り、家を離れてしまったので、このミシンがどのように活躍していたのか知ることができません。1979年に大塚平安教会に赴任し、実家には近くなりましたので、何かと来ることになりますが、その頃は部屋の隅にミシンが置かれ、ふたを被せられ、ひっそりとしていました。家を建て替えるにあたり、昔からのものはなるべく保存しようと思ったのですが、新しい家がそれだけのものを収納できるとは思われませんでしたので、ほとんどは廃棄しました。しかし、残されたものがミシンであり、ぼんぼん時計であったのです。
 ミシンと言えば、大塚平安教会の婦人会の皆さんの働きを示されます。赴任したころ、婦人会の皆さんが知的障害者施設のさがみ野ホームに訪問していました。月に一度、数人の方がミシンや裁縫道具を持参し、利用者の繕いものをするのです。さがみ野ホームは婦人会にお願いする繕いものを段ボールに入れておきます。訪問しては作業をしていましたが、出かけて行くのは大変であり、教会に繕いものを届けてもらうことにしました。月に一度、それらの作業をしていましたが、ホームの方でも事情があり、その仕事はなくなったのです。しかし、今まで作業をしていたので、そこで始まったのが「お仕事会」でした。特にバザーに向けて手芸品等を皆さんで作るようになったのです。そのため、今式のミシンが何台も戸棚に収められているのです。お仕事会は、皆さんが楽しく語らいながら行われるので、良いお交わりの時になりました。手芸品はバザーに出品して、それで手もとから離れるのですが、いまだに残っているものがあります。窓の暗幕です。教会の窓は、細い窓が天井まで伸びており、それが八つもあります。長い暗幕を作るにあたり、両端に丸い棒を忍ばせるのですが、その棒作りは私の仕事でした。「ちゃんと面取りまでして、良くできました」とのお褒めをいただいたものです。暗幕は日中スライドを上映する場合等に用いていましたが、その目的ではほとんど使わなくなりました。むしろ、真夏の遮光に用いるようになったのです。午前中は強い日差しであり、エアコンが効かないくらいです。日曜日は礼拝があるので外しますが、週日は遮光暗幕をつけたままにしていました。この暗幕を見るたびに、婦人会の皆さんのパワーを示されていました。
 足踏み式のミシンは、私の伝道者への道を励ました長姉の形見だと思っているのです。
<聖書の言葉>
ヨルダン川の流れは、主の契約の箱の前でせき止められた。これらの石は、永久にイスラエルの人々の記念となる。
ヨシュア記4章7節)