鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

伝道者たち( 地の果てに至るまで )

 
 今日は日曜日、神様を礼拝する日です。六浦谷間の集会は、今日は二人だけの礼拝でした。この家は、隣の家とは三方共道路を隔てており、裏は山の傾斜になっていますので、大きな声で讃美歌を歌っても、隣近所には聞こえないようです。やはり讃美歌を歌う時には大きな声で歌いたいものです。それぞれの教会は礼拝をささげつつ、伝道が導かれたことでしょう。
 教会は礼拝をささげ、皆さんと一緒に礼拝をささげながら伝道をしているのであります。教会として存立しているのですから、主イエス・キリストのご命令を実践しなければならないのです。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイによる福音書28章19節)とのイエス様の大伝道命令をしっかりと受け止め、伝道しつつ歩むのが世の教会なのです。つらつら思うことは、教会は伝道に力を入れながらも、取り組みが遅れているのではないでしょうか。礼拝をささげ、伝道集会を開き、チャペルコンサート等を開いては、世の人々をお招きしています。しかし、その時、多くの人々が出席したとしても、それだけでお終いです。特別集会を開いただけでは伝道になりません。その辺りは世の中の取り組みを学ばなければならないのです。例えば、何かのサンプル試供品を取り寄せた場合、度々問い合わせがあり、勧誘の電話や手紙が送られます。その熱意に負けてしまうこともあるのです。伝道集会を開いたと言うだけで、満足するのは間違いと言うことです。世の中の取り組みがそうであるように、執拗に伝道するということです。出席された方には連絡し、場合によってはお訪ねすることも大事です。また、伝道集会を開いたとき、それらの集会に教会員が、知人・友人を連れてくることです。伝道は教会員が忍耐をもって知人にお勧めすることが、一番の伝道力なのです。伝道は繰り返し、お誘いすること、それ以外にありません。2004年5月に教団新報に書いた談話を紹介しましょう。
○「小さい伝道者」
教会の教勢を考えるとき、牧師の子どもの活動は大きな力でもある。幼稚園の娘が耳を損ねて通院するようになった。受付けのお姉さんに、教会においでと誘っていると言う。土曜日になると、娘は「アシタ クルッテ」と言う。しかし、お姉さんは礼拝には来なかった。子どもの言っていることだからと気にも留めなかった。ところが、その後お姉さんが礼拝に出席した。牧師さんの娘さんから誘われたものですから、と挨拶された。「ネッ キタデショ」と娘は誇らしげに言う。その後、お姉さんは出席しなかったが、医院に通院している青年に勧めてくれたので、その青年が出席するようになり、洗礼を受けた。そして、既に教会生活をしている女性と結婚したのでクリスチャンホームが誕生したのである。その娘が、小学校一年生になった。今度は担任の先生に礼拝出席を勧めていると言う。先生は忙しいのだから、もう勧めなくてもいいんだよ、と親の気持ちを言ってしまう。「来なくても良い」と言っているのかな。迎えた主日礼拝は「わたしを一人にするな」との主のお言葉であった。
昔の思い出を記したが、教団問安使としていくつかの教区総会に出席している。いろいろな伝道の取り組みを示される。それぞれの教会が置かれた状況の中で、力強く伝道していることを知る。教区総会は孤軍奮闘する牧師・教会に励ましを与え、活力、癒し、希望を与える場であるとの思いを深めるのであった。

 祈りつつ伝道する諸教会に主の祝福が豊かにありますよう。
<聖書の言葉>
あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリヤの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。
使徒言行録1章8節)