鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

姉・美喜子の証( 何事も感謝を込めて祈り )

 
 昨日は高齢者の課題について、かねてより思っていることを記しました。1997年5月17日に神奈川教区横浜地区婦人委員会でお話した時の「結語」を紹介しました。お話の題は「今日も一日生かされて」(姉・鈴木美喜子の証し)でした。その姉・美喜子については、今までもしばしば記していますが、2月18日が姉の召天日でありましたので、改めて姉の証しを記すことにしました。
 私は5人兄弟であり、長姉・美喜子、次姉、三姉、兄そして私になります。兄は敗戦後まもなく病気で亡くなりました。二番目と三番目の姉は結婚しましたが、長姉は結婚せず、両親と共に最期まで過ごすのであります。私は両親が40歳を過ぎた子どもであり、私が成人になる頃は、両親は老人の域に達することになります。それで私は早く社会に出て、親を安心させてあげようという健気な思いを持っていました。ところが高校生の頃から伝道者への思いが導かれてきたのです。伝道者ともなれば、家を離れ、親とは一緒に住めないことも考えられます。親を安心させたいとの思いもあり、その矛盾を抱えながら過ごしていたのであります。そういう時に、「私が両親と共に過ごすから、あんたは神学校に行きなさい」と励ましてくれたのが姉の美喜子でした。その一言に励まされ、私が神学校に入るのは23歳の時でした。入学して寮生活が始まるのですが、両親は蒲団を新調してくれて、それが家に届けられた時、姉達が「お嫁に行くみたいだね」と言ったものです。その蒲団と共に寮生活が始まるのですが、それはまた家を後にしたということになるのです。神学校を卒業と同時に結婚しますので、新居で生活することになりました。最初の青山教会は副牧師でしたので、教会に住むことなく芝白金に住むことになりました。その後は宮城県の教会、そして大塚平安教会に住むことになりました。もちろん六浦の実家には何かと行き来していました。そのような私の歩みに対して、姉が両親と共に住んでくれていたので安心していたのです。
 姉・美喜子は清水ヶ丘教会の信徒でした。従姉が既に清水ヶ丘教会に導かれており、従姉の誘いもあったのでしょう。姉と二番目の姉が教会員となりました。日曜日に礼拝に出席し、家に帰ると姉の美喜子は礼拝のすべてを母に話していました。説教も最初から最後まで話している姿が思いだされます。母も喜んで聞いていたようです。
 1979年に私は大塚平安教会に赴任します。その2年後の1981年に、姉は膝に水がたまると言うことで病院に行きます。その時点でリュウマチと診断され、いろいろ本を読み、断食療法が良いということで千葉の病院に断食入院をするのです。何ヶ月か入院しますが、やせ細って、栄養失調にもなり、家に帰って来たのです。それからは西洋医学で治す思いを強め、横須賀の衣笠病院、国立病院等に入院し、大腿骨、左膝、右膝、頸椎等の手術をするようになるのです。まだ入院してないとき、リュウマチの痛みを持ちながら、母を看病していました。ベッドの母の耳元で讃美歌312番を歌ってあげていた姉でした。その後、父を送りますが、その時は姉自身が入院中であり、最期の父と合わせるために、姉を病院から父のもとへ連れてきたのでした。「私が両親と共に過ごすから、あんたは神学校に行きなさい」と言って私を励ました姉であり、まさに両親の最期まで、一緒にいてくれた姉・美喜子には深く感謝をしているのであります。姉が病気になる前に、大塚平安教会に就任することは神様のお導きでありましょう。
 不自由な手でありますが、毎日ノートに日記を記していました。そして、毎日の日記の最後には、「神さま、今日も一日守られて感謝です」と記すのです。祈りつつ、神様を仰ぎ見つつ生きた姉であります。一人の伝道者を送りだし、自分の責任を最期まで貫いた姉・美喜子の信仰の人生を、私はいつまでも語り継ぐでありましょう。68年間の信仰の人生でした。
<聖書の言葉>
どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。
(フィリピの信徒への手紙4章6節)