鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

高齢者の生活一考察( せん方つくれども )

 
 一昨日は「神の庭サンフォーレ」について、支援の立ち上げについて記しました。私は高齢者と共に歩む課題として、1997年5月17日、神奈川教区横浜地区婦人委員会の要請で発題をしました。今でも基本的に考えていることであり、今日はその発題を記しておきましょう。私の姉はリュウマチを患い、15年間、進行する病と闘いながら、信仰の証を示したのでした。その介護にあたった二人の姉、連れ合いのスミさんを示されながら、教会における高齢者の課題について考えさせられたのでした。
○「今日も一日生かされて」(姉・鈴木美喜子の証し)より、「結語」として記したものです。
 私は姉のことでつくづく思ったし、教会でも常に思わされているのでありますが、私達は、交わり、信仰の交わりと言っていますが、その交わりは教会における交わりなのであり、生活の場における交わりは遠慮があり、一歩ふみこめないでいるのでした。生活の中に入って行けないのが私達であります。そうであるから、老後のことが心配になるのであります。
 社会ではヘルパー制度がかなり研究され、取り組まれています。24時間体制ができて、お金さえあればすべてヘルパーさんにお任せできるのです。各市町村も福祉行政を強めています。そういう中で教会はこの取り組みがあまり具体化されていません。もう少しふみこんでこの問題を自分達の課題にしたいのです。すなわち、高齢者は家の高齢者ではなく、教会の高齢者であることを受け止めたいのであります。若いころから忠実に教会生活をして来ました。献身と奉仕、祈りと聖化ということで、時と力をささげながら生きてきた訳です。ところが年を取り、足腰が弱くなると、だんだん教会から足が遠のいて行きます。「最近は○○さんは礼拝に出席できなくなりましたね」と言い、お手紙を差し上げ、信仰の交わりが続けられています。
 あれほど教会と共に生きてきたのに、病気となり高齢となると、教会ではなく家族の世話になるのです。それは当然でありましょうが、そこに問題があるのです。教区・教会の課題であります。今までひたすら教会に仕えてきた人が、足腰が弱くなり教会に来られなくなったとき、「お大事に、お祈りしています」と言うのでは信徒の交わり、希望がどこにあるのでしょうか。信徒の希望は足腰が弱くなっても、なお教会の中にいる自分を見出すことではないでしょうか。教会は介護について皆さんで勉強し、高齢者がいる家族と共に歩むべきなのです。
 家族は、これ以上家の中に立ち入っては困るなんて言わないで、家族にとっては教会の人は他人でありますが、介護を共にするのです。一人で負わないで、教会がチームを組んで高齢者と共に歩むことであると思っています。自分は、お見舞いは良いとしても、台所や部屋の中に入ってもらいたくない、と思う人が多いのです。自分もまた、他人の家には入りたくないという信徒が案外います。もはや、そういうことは言っては居られないのです。
 教区や教会の諸集会に出席しない代わりに高齢者の家を訪ねる、そういう時が来ています。教区や地区もそういうプログラムを考えるべきです。そして信徒数の少ない教会・伝道所は、自分の教会だけでは介護チームはできないので、地区で考え、教区が取り組んでいくということが必要なのです。
 フィリピの手紙に出てくるエボディア、シンティケという婦人たちはそういう働きをしたのでありました。「神さま、今日も一日守られて感謝です。今日は○○教会の方が泊まってくれます。感謝です。神様の祝福がありますよう。明日は△△教会の方がきてくださいますが、お交わりができますように」と祈りたいと願っています。

 高齢者は神様のご栄光であり、高齢者から神様の御心を示されたいのであります。
<聖書の言葉>
わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、打ち倒されても滅ぼされない。いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。
(コリントの信徒への手紙<二>4章8-10節)