鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

愛する詩人たち( 神を仰ぎ見つつ )

 
 八木重吉という信仰詩人がいますが、今日はこの人が生まれた日であります。1898年に生まれ、1927年10月26日に亡くなっています。東京高等師範学校時代に小石川福音教会(現・小石川白山教会)で受洗しています。没後に詩集「貧しき信徒」が出版され、キリスト教の人々の評価が高まりました。今でも愛読者が多くおられます。私がこの詩人を知るようになるのは、神学校に入ってからでした。
神学校に入ってからいろいろなアルバイトをしましたが、その中で日本基督教協議会(NCC)文書事業部でアルバイトをしました。その頃、NCC文書事業部は「月刊キリスト」を発刊していました。編集長は今は天におられる高戸要さんという人で、敏腕をふるっていました。毎月、雑誌が発行されると、まず発行所に取りに行きます。昔は今のように宅急便なる配達屋さんが無く、こちらから取りに行く状況でした。とりあえず編集者用にもらってくるのですが、50冊くらいを風呂敷に包み、バスや地下鉄で行き来していました。その後、運送屋さんがどっさりと運び込んで来ます。それを予約している教会や個人に発送します。東京都内は持参するのです。いろいろな教会へ風呂敷包みを下げては届けるのでした。今では考えられない配達、発送でもありました。昔は西早稲田キリスト教会館はなく、銀座四丁目の教文館の中にキリスト教関係の団体があったのです。NCC文書事業部も教文館の中にあり、それまでは銀座など歩いたこともないのに、一流の町を闊歩するようになりました。出身の清水ヶ丘教会の倉持芳雄牧師が日本基督教団の伝道委員長をされている頃で、よく事務所に寄っては励ましてくださいました。あるときは、外から帰って来ると、もはや溶けてぐちゃりとなっているアイスクリームが机の上においてあるのでした。事務員の人が、「さっき、あなたの先生が置いていったの」と言うのでした。この銀座四丁目には近くのビルの地下に「ミュンヘン」と言うビアホールがあり、不謹慎ながら友達と出かけたこともありました。
八木重吉との出会いを書くためにアルバイトのことを書きました。「月刊キリスト」の編集者に関茂先生がおられました。神学校の先輩にあたります。この方が「月刊キリスト」に八木重吉の詩と信仰について連載していました。そこで初めて私の八木重吉との出会いが与えられたのでした。愛する夫人と子供を見つめながら信仰の詩を歌ったのでした。「雲雀。細道のふちの枯芝に腰をかけ、桃子と並んで、雲雀の鳴くのを聞いてゐた。」、「基督。キリストを仰ぎて黙す、けわしい路をおもう。キリストにつかまろう、キリストにつかまろう。ふりはなされてもふり離されてもつかまろう。」
関茂先生の執筆活動を示されながら過ごすうちにも、私は山村暮鳥との出会いが与えられるのです。神学生の時代に「雲と信仰」(山村暮鳥論)を書きました。山村暮鳥聖公会の牧師でありましたが、芸術を愛するあまり、聖職か芸術かでもがき苦しみつつ詩作にふけり、職務をこなしていたのです。萩原朔太郎が、「実に彼自ら告白している如く、キリスト教は彼にとって職業であり、パンのための方便にすぎなかった。この全く彼の気質に適しない宗教が、職業として彼の全生涯を悩ました」と論じています。私は山村暮鳥の悩みが信仰であることを論じました。「わたくしは暮鳥が最後まで信仰を持った人だと思えてならない。そうでなければ、単に聖職を職業とし、芸術を愛う生活が苦悩であるはずがなかった。その生活が苦悩であったのは、やはり信仰者暮鳥の深い祈りがあったのだろう。この点、同じようにデカタンの道を辿った太宰治が生涯祈れなかったのとくらべて暮鳥は違っている。祈りは神に話すともなく、つぶやくともなく暮鳥の口から出た。そして、それがそのまま詩になった。暮鳥の詩は全て祈りであったと言える」と記しています。私が少しく詩作をするのはこの人たちの影響なのでしょう。
<聖書のことば>
この皮膚が損なわれようとも、この身をもって、わたしは神を仰ぎ見るであろう。このわたしが仰ぎ見る。ほかならぬこの目で見る。腹の底から焦がれ、はらわたは絶え入る。
ヨブ記19章26節、27節)