鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

こけし物語( 生きる者になったと )

 
 2011年1月22日 「こけし物語」( 生きる者になったと )

 一昨日、著作「鳴子こけしの歌」について記しましたが、今までも気になっていたのですが、しきりに「こけし」達を表に出してあげようと思うようになりました。趣味ではないのですが、いつの間にか「こけし」が並ぶことになりました。大塚平安教会時代、狭い牧師室には置く場所もなく、かと言って家の中にも飾る場所がなく、ついに袋に詰めて物置にしまってしまったのです。「こけし」の一つ、二つならともかく、30体もあるのですから、まさに置く場所がありませんでした。物置にしまいこんでから10年以上にもなるでしょう。引越しの時、処分も脳裏にありましたが、それでは「こけし」達がかわいそうです。引っ越し後も物置にしまったままでした。
 出してあげようと思いましたが、ではどこに置くかが問題です。書斎はどこも本だらけです。思いついたことは、ある空間を利用することでした。ある空間とは階段部分です。階段の二階部分は結構な空間になっています。そこに板を渡せば、物を乗せることができるのです。早速ホームセンターで材料を買い、工事に取り掛かりました。簡単に空間があると言っても、階段の空間に板を渡す作業は危険なことでした。脚立を使わないと工事ができません。こうして出来上がった空間の物置台は畳半畳の広さです。結構、置くことができるのです。
 早速、物置から「こけし」達を出しました。大きい物、小さい物等、一つひとつ物語が含まれているのですが、どういう物語であったのか、記憶が薄れています。立ち並ぶ「こけし」達は、「出してくれてありがとう」と言っているようでもあります。皆ほほえんでいますが、中には伏目の「こけし」もあります。木彫りの「だるま」もあるのですが、にがい顔をしてこちらを見ています。鳴子こけし、遠刈田こけし、弥治郎こけし、また変形こけし等、さまざまな「こけし」が並んでいます。これだけ並べても、まだまだ並びますので、どこかに出かけると仲間を連れて帰るのかもしれません。
 趣味でも無いのに、どうしてこんなに「こけし」が集まったのでしょう。やはり宮城の教会に赴任したことが機縁となるでしょう。赴任して過ごすうちにも、教会の壮年会の皆さんの例会が開催されました。会場を提供された方は中学で絵画の先生でした。集会の場はその先生の作業場でもあり、いろいろな自作の絵や「こけし」がたくさん並んでいたのです。先生は「こけし」の中から、かなり大きな「こけし」を取り、これを牧師先生に贈呈するので、サインをしてほしいと皆さんに求めました。その「こけし」が飾られていますが、「こけし」の底裏に皆さんのサインが記されており、懐かしいお名前を見るのです。今では天におられる方もあります。この「こけし」だけは物置にしまわず、書斎の片隅に置いていたのです。
 このように皆さんから「こけし」を贈られたことにより、販売店に行くと、つい求めてしまうことでした。また、鳴子には「日本こけし館」があり、見学に行きました。「鳴子こけしの歌」を出版して、翌年には大塚平安教会に転任しました。その後、宮城に訪れた際、足を伸ばして鳴子に行き、「日本こけし館」にも寄りました。陳列の「こけし」を見学しているうちに、驚くべきものを見たのです。「こけし」関係の書籍が陳列されていましたが、実に私の著作が並べられていたのでした。高橋萬三郎さんが寄贈したのでありましょう。それから数年後にも仙台に行く機会があり、だからわざわざ鳴子に行くのは、「日本こけし館」に寄りたかったのです。陳列されている著作に会うためでしょう。しかし、もはや陳列されてはいませんでした。「鳴子こけしの歌」は、直接「こけし」に関するものではないからです。
 「こけし」達は、皆それぞれ物語を持っています。記憶が薄れているのですが、何とか思い出して見ることにしましょう。そこにはいろいろな方々との出会いがあるからです。
<聖書の言葉>
主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に息を吹き入れた。人はこうして生きる者となった。
(創世記2章7節)