鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

故郷( わたしが示す地に行きなさいと )

 
 昨日の散歩で、私が生まれた場所の比較的近くを歩いたので、今日はその場所に行ってみました。しかし、今は全く変わっていますので、どこに私の家があったのか、全く分かりませんでした。このあたりかなと思うところは工業団地になっていました。ニッサン工場がかなりの場所を取っていました。綾瀬市にいるときも、ニッサン座間工場が近くにあり、なんとなくニッサンに縁があるようです。だいたい私の車はずっとニッサンでした。何しろ71年も昔のことなのですから変わって当たり前なのですが、何一つ面影がないことは悲しいことです。私の生まれた場所は横須賀市浦郷5293番地ということでした。「鉈切」との地名でもありました。今は夏島町になっていました。近くに日本軍の追浜飛行場があり、戦争が激しくなり、飛行場周辺の住民は強制的に転居させられたのでした。それで現在の六浦の家に住むようになったのでした。私の生まれた家から比較的に近い所にお寺があり、そこに鈴木家の墓地がありました。小さい頃、もはや六浦に転居してからですが、家族に連れられてお墓参りに行ったものです。それまでは墓地が近かったので良かったのですが、六浦から浦郷にある墓地はかなりの道のりでした。実際、今日の散歩で50分の距離でした。その後、墓地は安針塚の吉倉にある浄栄寺の墓地に改葬しましたので、浦郷に行く機会がなくなったのでした。生まれ故郷は全く姿を変えてしまいましたが、その寺はどうなっているのでしょう。なんとなく記憶がある方角に歩いて行きましたら、昔の寺はそのままでした。10歳頃に墓参りに来たと思いますが、その寺がまさしくあったので、ようやく生まれ故郷に来た気分になりました。山門を入り、左手に井戸があること、そのそばに六地蔵があること、60年前の思い出が甦って来て、とても懐かしい思いを致しました。墓は山の斜面に造られており、それも当然のことながら昔のままでした。
 私が4歳のときに転居したので、昔の家のことはほとんど覚えていないのですが、なんとなくよみがえってきます。家の周りは道であったことです。その道を行くと大きい道になることくらいが思い出されています。六浦の家の近所の家は、その鉈切から転居してきた家であります。ですからその当時の呼び名がしばらく続いていました。「豆腐屋さんのおじさん」「稲荷前のおばさん」「ニヤ(新家)の人」「深浦のおばさん」という具合でした。しかし、昔のことで、そのような呼び方を今はしていません。私としてはいまだにその呼び名でお隣さんを思っているのです。鉈切から転居された人は、今はほとんどおられません。二代目、三代目の人々なのです。従って、鉈切を懐かしむのは私くらいなのでしょう。
生まれ故郷は、寺以外は消えていました。すると私にとって故郷とは今住んでいる六浦が故郷になるのですが、住んでいる以上は故郷にはならないのでしょう。そうすると古川市もそうですが、私にとって綾瀬市が第二の故郷になるのでしょう。故郷とは、人々と心を通わせて過ごした場であるのです。私たちが結婚してからは芝白金台と六郷川沿いに4年間住み、その後は宮城県古川市に6年半住みました。そして綾瀬市に住むこと30年6ヶ月になります。そこで育んだ営み、人々との触れ合い、喜怒哀楽の場こそ故郷といえるでしょう。
室生犀星さんの詩が思われます。「ふるさとは遠きにありておもふもの/そして悲しくうたふもの/よしや/うらぶれて異土の乞食(かたい)となるとても/帰るところにあるまじや/ひとり都のゆふぐれに/ふるさとおもひ涙ぐむ/そのこころもて/遠き都にかへらばや/遠き都にかへらばや」。
聖書は、私達はこの世に生きる限り旅人であり、天にある故郷へ帰ることを示しているのです。「私達の本国は天にある」(フィリピの信徒への手紙3章20節)と示されるように、この世の国に属しながらも天の国に属し、やがてそこに帰って行く希望があるのです。
<聖書の言葉>
あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。
(創世記12章1節、2節)