鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

各駅停車 ( 歩みに合わせてゆっくりと )

 
 今日は夕刻になって、前任の教会員の方が私達夫婦をお招きくださり、中華街に出かけました。電車で行くことにし、六浦駅まで歩くと15分はかかるので、金沢八景駅までタクシーで行きました。京急横浜駅まで行き、そこからJR根岸線石川町駅まで行くのです。いつもは金沢八景駅からは快速特急で行きますが、普通電車で横浜まで行きました。ゆっくりと座れるからです。快速は早くて良いのですが、座れることはめったにありません。急ぐ旅でもないし、各駅停車で行ったのです。各駅停車は車窓の景色を見ることができ、本当に変わってしまった沿線の風景に、ただ驚くばかりでした。こうして各駅電車に乗ると、若かりし頃が思い出されてなりません。快速ですと、あっという間に過ぎて行きますので、昔に思いを寄せることはないのですが、各駅停車の電車は昔の日々を思い出させてくれるのです。
 中学は公立ではなく、私立の横浜高校附属の横浜中学でした。今は能見台駅となっていますが、昔は谷津坂駅であり、中学の3年間は電車で通っていたのです。公立中学に進まなかったのは、悲しい経過がありました。私が小学生の頃、母の不思議な導きのもとに関東学院教会に通っていたことについては、今までも記しています。入院していた母を、6月の花の日関東学院教会の子供たちがお見舞いしてくれたことです。退院するや私を教会に連れて行き、以後は日曜日になると私を教会学校に送りだした母でした。ところで教会学校の生徒はほとんどが関東学院小学校の生徒でした。従って、そのまま中学に進むのです。その影響もあって私も関東学院中学に入りたいと思いました。親も理解してくれたので、一生懸命に受験勉強をしました。小学校の先生も受験勉強を指導してくれたのです。しかし、残念ながら不合格となりました。小学校の先生は、今まで私立に進むと皆に言ってきたので、公立学校に進むのも気が引けるでしょうと横浜中学に推薦してくれたのでした。
それで3年間電車通いをすることになったのですが、高校になっても電車通いが続きました。横浜中学は卒業すれば横浜高校に進むことができます。野球が強いということで有名ですが、私はその高校に進むことはせず、県立商工高等学校に進んだのでした。昔は横浜国大の隣にあり、弘明寺駅まで電車に乗ります。中学までは六浦駅から3駅目の谷津坂駅でしたが、高校は六浦駅から弘明寺までは9駅目になります。6年間、京浜急行のお世話になりましたが、それだけに沿線の変化に驚きを覚えるのでした。弘明寺駅から学校までは商店街を通るのでありますが、通学途上にお会いするのが一人の先生でした。中学の時代、書道の先生でした。書道の時間にこの先生からは一度も褒められたことはなく、むしろ下手であることを指摘されたことが忘れられませんでした。中学を卒業し、もはやその先生と会うこともないと思っていたのですが、高校通学途上、毎日お会いすることになったことは、私に一つの方向を与えたようです。あれほど下手と指摘された書道に対して感心を持つようになったのです。だからと言って、特別に習いに行ったというのではありませんが、書くことに注意するようになったのでした。自分なりに手本を見ながら、筆を動かすようになりました。私の筆の字を達筆と評価してくださる方がありますが、我流であり、達筆の評価はお返ししなければなりません。ただ、筆を持って紙に向かう姿勢は、好きと言うか、向いているというか、気持ちが集中するのです。決して達筆ではないのですが、便箋にしたため、はがきにしたためることは、喜びでもあります。そろそろ70の手習いになりますが、本格的に書に向かおうかなとも思っています。
今は京急と称していますが、昔は京浜急行と称していました。まさに急行くらいでした。今は特急があり快速特急があります。一気に行きつくのではなく、ゆっくりと現実を確認しながら歩むことが必要ではないかと、車窓を眺めながら思ったのでした。
<聖書の言葉>
僕(しもべ)におかまいなく先にお進みください。わたしは、ここにいる家畜や子供たちの歩みに合わせてゆっくり進み、セイルの御主人様のもとへ参りましょう。
(創世記33章14節)