鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

礼拝への備え ( 何が喜ばれるのかと問いつつ )

 
 今日は日曜日、六浦谷間の集会が開かれました。前週は横須賀上町教会のクリスマス礼拝を担当しましたので、こちらでの礼拝はありませんでした。今回で第4回目になります。第2回目の時は、私達の他にお二人の方が来られ、共に礼拝をささげました。今日はその時のお一人の方が出席されました。今日も少人数ですが、祝福された礼拝でありました。お一人でも出席されると、気持ちが改まります。たった二人の礼拝が、気持ちが改まらないと言うのではありませんが、いつもの生活の中における礼拝でもあるからです。お一人でも出席されると、やはり部屋を整頓するでしょうし、集会の場が作られるのです。礼拝はやはり気持ちを改めると言うことが大切なのです。二人だけでも部屋は整理整頓致しますが。
 イエス様が「婚宴」のたとえをお話されています。ある王が王子のために婚宴を催し、家来たちに招いていた人々を呼ばせました。しかし、それらの人たちは来ませんでした。そこで、王は招いていた人が来ないので、町の大通りに出て行き、見かけた者は誰でも連れて来なさいと家来に命じました。それにより婚宴は客でいっぱいになったのです。王が客を見まわすと、客の中に礼服を着ない人を見つけます。王は、「友よ、どうして礼服を着ないでここに入ってきたのか」と言います。その人は黙っていました。王はこの人を外に追い出すよう家来に命じるのです(マタイによる福音書22章1節〜)。
このお話を読むと、礼拝に出席するのに、晴れ着を着て出席しなければならないのかと思います。着物、洋服について示しているのではなく、礼拝に出席する姿勢を示しているのです。礼拝に出席する場合、心を改め、神様に向かうという姿勢を持たなければならないのです。例えば、七五三のお祝いの時、子供に晴れ着を着せますと、いつもは走り回る子供でも、それなりにおとなしくしています。自分が晴れ着を着ている意識があるからです。衣服を整えると言うことは、気持ちを神様に向けるという大切な姿勢にもなるのです。
 どこの教会も日曜日の前、土曜日でも金曜日でも会堂清掃を行います。それは、会堂を清掃し、身も心も神様に向けるためでもあります。例えば、清掃することなく礼拝をささげた時、神様に心を向けているのに、紙くずが気になり、埃が積もっていることで気持ちが揺らぐのです。会堂を清め、衣服を改め、気持ちも変えて全身で神様に向かうことなのです。大塚平安教会時代、礼拝においてはガウンを着ていました。身を改める意味もあり、牧師のこの世の姿を包むという意味もあります。そして、ガウンを脱げば礼服を着ていました。ネクタイも白いものです。シルクのネクタイで「JESUS」の文字があしらわれており、皆さんは珍しがって良くご覧になっていました。お祝い、喜びを現す衣服に整えているのです。ある時、一人の方が礼拝を終えて帰られる時、牧師の衣服を見ながら、「これから結婚式ですか」と尋ねるのです。礼拝に出席するための晴れ着でもあるのですが。
 牧師になる時、日本基督教団の正教師試験を受けます。合格しますと、教区総会で按手礼を受けることになります。按手礼は式の中で、既に牧師になっている人が、新しく牧師になろうとする人の頭に手を置きお祈りするのです。ある時の教区総会で、按手礼志願者がありましたが、その人の按手礼は継続となり、次の教区総会まで持ち越されたのです。何故、継続になったかと言えば、志願者の意見表明に対して議場から質疑があり、なかなか決議には至らず、そのため議長は継続を提案し、その理由として、志願者が赤いネクタイをしていたからとしたのでした。変な継続提案で、思わず議場は笑いに包まれました。議長も赤いネクタイは礼服ではないと判断していたようです。
 赤いネクタイでもジーパンでもポロシャツでも、神様に向かう姿勢であるなら良いのです。
<聖書の言葉>
自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。
(ローマの信徒への手紙12章1節)