鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

水曜集会 ( 祈りの場を求めつつ )

 
 水曜日の夕食時にいつも思うことは、「今日は水曜日である」と言うことです。水曜日なのだから当たり前なのですが、私に取って水曜日は大切な日でありました。夜の7時30分からは水曜集会を開いていたからです。聖書研究・祈祷会であります。夜の集会であり、集まる人は6、7人でありました。多い時は10名を超えることがありましたが、年間の平均は7名前後と言うことです。主日礼拝は毎週日曜日に行うことは、どこの教会も同じであります。しかし、最近は聖書研究・祈祷会は必ずしも水曜日の夜に開催しない教会も出てきています。夜の集会は出席しにくいので、週日の昼間に行う教会、あるいは日曜日の礼拝後に祈祷会を行う教会があります。そういう中で大塚平安教会は水曜日夜の集会にこだわってきました。礼拝をささげ、週の半ばに祈祷会を開催することに意義があるからです。
 水曜日の夜は集会があるので、教区・教団の会議等はなるべくこの日に行わないようにしていました。しかし、教団の役員会は他に日程も取れないことから水曜日に開くことがありました。午後1時30分から4時30分まで会議を行い、それから急いで教会に戻ります。西早稲田からですと約2時間かかりますので6時30分頃には戻れますが、会議が少し長引いたりすると7時を過ぎてしまうこともありました。それでも水曜集会に間に合いました。集会は水曜日が休日になった場合は休会にしていました。その日は外出する人もあり、出席者が減少するからです。そのような時は、不謹慎な言い方ですが、なぜかホッとするのでした。日曜日の礼拝、水曜日の聖書研究・祈祷会が固定的であり、それらの集会を中心にして一週間を歩んでいたのです。それが今、水曜集会のない生活になっています。まだ、今までの生活に余韻があり、水曜日の夜になると、こんなことをしていて良いのだろうかと思うのでした。今ごろは祈祷会をしており、私達のことも覚えてお祈り下さっているのだと思うのでした。一人でも多くの出席者があることを祈っているのです。以前、教団新報に記した談話を紹介しておきましょう。

 「お客さん、来ないねえ」
毎週水曜日は聖書研究・祈祷会が開かれる。夜七時半からであり、この時間に出席するのは困難な方が多い。おのずと出席者が少ない。開会五分前、連れ合いと共に開会を待っている。この時点ではまだ出席者がなかった。もしかしたら、どなたも来られないかな、ふとそんな思いがよぎる。昔、地方の教会で牧会していたころ、やはり水曜日の集会が続けられていた。冬ともなると寒さがこたえる地方であり、いつもは四、五名の出席であるが、寒さの厳しいときは牧師夫婦二人の集会のことがある。夫婦で集会を開くとき、困るのはどのような話し言葉を使うかである。丁寧な言葉でもなく、普通の言葉でもない。気を使いながらの集会が終わるころ、決まって末の子がチョコチョコとやってくる。両親だけの集会をじっと見つめ、「今日は、お客さん、来ないねえ」と言うのであった。子どもなりに出席者を期待しているのである。「今日は寒いし、御用のある方もあるからね」と言い訳を言う。宣教方策会議が三月六〜七日に開催された。主題「二一世紀を迎えた教会の現状と展望」のもとに、発題があり協議が重ねられた。統計的に減少を続ける日本基督教団であるが、各教会は祈りつつ宣教している。希望をもって明日の教会を担うことを示された。開会時間となった。その時、玄関の扉が開く音がした。思わず二人は顔を見合す。互いの顔に安堵を読み取っているかのように。

 この談話を読み、礼拝の説教の中で読ませていただいたと数人の牧師から連絡がありました。祈りつつ夜の集会を続けていることを示されたのでありました。
<聖書の言葉>
安息日に町の門を出て、祈りの場所があると思われる川岸に行った。そして、わたしたちもそこに座って、集まっていた婦人たちに話をした。
使徒言行録16章13節)