鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

ただ、この一事を務む ( ひとつのことに向かいつつ )

 
 連れ合いのスミさんが、綾瀬にいるときに掲げていた色紙額、神学校の校長であった岡田五作先生の色紙が、今は飾られてないことに気がついたのです。まだ、片づけの途中であるので、荷物の中から出していないということです。早速、色紙を捜し掲げました。この色紙は神学校を卒業する時、岡田五作校長が卒業生をご自宅に招き、夕食を接待してくださり、11名の卒業生に色紙をくださったのでした。11枚の色紙の中から、私はあえてこの色紙を選びました。「ただ、この一事を務む」と書かれていました。今まで、その色紙を飾っていたのですが、引越しで荷物の中におかれたままになっていたのです。
 この岡田五作先生とは不思議な出会いが導かれていたと思います。出会いというものは不思議というか、かなり以前から用意されており、そして後に本格的な出会いへと導かれていくのです。大塚平安教会の牧師に招かれる時にも、つくづくとその出会いを示されたのでした。私が高校生の頃、清水ヶ丘教会の礼拝に出席すると、大塚平安教会の名を度々聞くのです。大塚平安教会を覚えてお祈りするということでした。どのようなお祈りであったかは、今は定かではありません。昔、時々耳にしていた大塚平安教会の牧師に招かれた時、この導きは高校生の頃から始まっていたのだ、と思わされたのでした。ところで、岡田五作先生との出会いも高校生の時でした。昔は全国教会高校青年会(KKS)なる組織がありました。各教区でKKS活動が進められていました。毎年、全国大会が開催されます。高校3年生の時、山中湖で開催された全国大会に神奈川教区を代表して参加したのでした。その時の講師が岡田五作先生でありました。岡田五作先生は高校生たちにユーモアを交えながらお話をしてくれました。話の内容は忘れましたが、いくつかの面白いお話だけは覚えています。「私の名前は岡田五作です。でも、人によっては私のことを、岡・田五作」という人もいます」、「御殿場の駅に降りたら、女の子が派手にふるまっていました。そうか、ここは<おてんば>なんだと思いました」とのお話で始まり、その後の講演はよい学びを与えられたのでした。
 日本聖書神学校に入学した時は23歳でした。その時の校長先生は金井為一郎先生でしたが、入学して半年で天に召されました。次なる校長は岡田五作先生が就任しました。ある時、夏期伝道に行った北海道の牧師から連絡が入りました。北海道は冷害で大変であり、そのことを牧師が新聞社を訪ねて実情を報告しました。そしたら新聞のコラム欄でありますが、一人の牧師が冷害地救済活動をしていることが紹介されました。すると全国から寄付金が寄せられ、かなりの額になったので冷害地に配分したいということでした。冷害地を調査する人を求めているというのです。そこで、春休み中でありましたので、他の神学生達数人で北海道に赴きました。牧師は冷害地救済活動やその他の活動をしているので多忙を極めていました。それで、私は神学校を一年間休学して牧師の手伝いをすることを牧師に申し出ました。自分としても不本意であるが、それはありがたいと了承してくれたのです。牧師は神学校の岡田校長と電話で話していました。かなり長く、時には強い語調で話していました。校長は反対しているということでした。とにかく休学するにしても、東京に帰ることにしました。東京に着くや、まっすぐに校長宅を訪れたのでした。さぞ、強く叱られるだろうと思っていました。玄関に現れた岡田校長先生は笑顔で私を迎え、冷害地の視察状況等を訪ねたりしました。休学のことは何も口にはしませんでした。むしろ、校長先生の笑顔に包まれて、とにかく今は社会的なことをするのではなく、学ぶことであることをしみじみと感じたのです。
 あの岡田五作校長の笑顔が暴走しようとした私を引き止めたのでした。「ただ、この一事を務む」の色紙がいつも笑顔で私に語りかけているのです。
<聖書の言葉>
マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。
ルカによる福音書10章41節、42節)