鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

忘れな草と忘れ草 ( 光を輝かしつつ )

 
 一昨日は「のど自慢」と題して書き、カラオケのことなんかに触れ、いくつかの曲を歌ったことを記しました。その余韻がありますものですから、もう一つ歌っていたことを記しておきましょう。菅原洋一さんが歌っていた「忘れな草をあなたに」という歌でした。でも、この曲は哀愁があり、皆でにぎやかに歌っているときに歌うものではないので、めったに歌わなかったと思います。ところで、「忘れな草」なる草、花がどんなものか分かりませんので「園芸百科」で調べてみました。「愛する彼女の求めで、この花を取ろうとして足を滑らせ、急流に流されながら、『私を忘れないで』と絶叫しつつ水没した騎士の、悲しい伝説に由来する」と説明していました。春に咲く花で、紫やブルー、ピンク色があるということです。どこかで見たような気が致します。「忘れな草」は「勿忘草」と書きますが、愛する人を忘れないとの意味になりますが、必ずしも男女の愛に限らず、私達には忘れられない出来事があります。
 昨日の日記で、若いころ北海道に行ったことを記し、青函連絡船に乗ったことを記しました。そしたら夕刻、NHKのテレビで青函連絡船の海難事故について放映していました。1954年9月26日に函館港を出港した洞爺丸が青森港に向かいました。おりしも台風15号による強風と高波で洞爺丸は沈没し、1430名の命が犠牲になりました。昨日のテレビでは紹介されませんでしたが、二人の宣教師が自分の救命胴衣を提供して、自分は犠牲になったことは忘れられない出来事でした。一人はアルフレッド・ラッセル・ストーン宣教師、もう一人はディーン・リーパー宣教師でした。二人は人々が救命胴衣を着けるのを手伝い、自分が着けるべき救命胴衣をも人に着けてあげたのでした。作家の三浦綾子さんも小説「氷点」の中で、その出来事に触れています。二人の宣教師によって助けられた人はもちろんですが、私たちも「忘れな草」の人々なのです。ストーン宣教師は東京の町田にある農村伝道神学校の初代校長でした。北海道内の教会・牧師達を励まし、東京に戻る途中でした。リーパー宣教師はアメリカのキリスト教青年会(YMCA)の派遣で来日していました。道内の教会でYMCA活動を紹介し、仙台に向かう途中であったと言われます。自分の命を犠牲にして他者の命を救ったのは主イエス・キリストでありますが、二人の宣教師は身を持ってイエス様の教えを実践したのでした。「勿忘草」とした方がよいでしょう。この二人の宣教師の証しは決して「忘れる勿れ」の存在なのです。
 「忘れな草」について調べていましたら、「忘れ草」もあることを知りました。萱草の別名とも言われます。「ユリ科」の種類だそうです。ニッコウキスゲを見たことがあるでしょう。それが「忘れ草」と言うそうです。その花を見ていると、あるいは身に着けると「憂さ」を忘れてしまうということです。それで「忘れ草」というのであり、その草が忘れられてしまうという意味ではありません。昔、幼稚園の教職員旅行で北海道に行きました。この時は飛行機の時代でした。北の海岸であったと思いますが、浜辺に咲くきれいな花がありました。なんという名前でしょうと先生たちが言っているので、ニッコウキスゲと私が言いました。少し歩いたところに花の名を書いた札があり、そこには「○○ハマキスゲ」と書いてありました。私の言った花の名前は当たっていたようです。その花を見ていると憂さを忘れる。キリスト教的に言うなら、イエス様を心に示されると、まさに憂さを忘れるということでしょう。そういうお話で締めると、また説教になってしまうので、ニッコウキスゲにとどめておきましょう。
 「忘れな草」と言われる存在ではありませんが、やはりこの世に生きた一人の存在として、覚えてもらいたいとの思いがあります。私の場合、日本基督教団総会書記を4期8年務めましたので、牧師が持つ手帳、牧会手帳の巻末に歴代三役の名が記されており、末永く名前が記されるのです。何の取り柄もありませんが、それだけでも感謝であると申し述べておきます。
<聖書の言葉>
あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々があなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。
(マタイによる福音書5章16節)