鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

もうひと踏ん張り ( 生き永らえて )

 
 年賀状を書く準備をしています。まず、住所録の整理から始めなければなりません。それには今年いただいた年賀状から住所を確認することでした。分厚い年賀状の束を紐解き、一枚一枚調べるはずが、一枚一枚改めて読むことになってしまいました。その中の一枚の賀状にしばし思いを馳せることになりました。北海道の方です。私が神学校に入り、2年生になった時、夏期伝道に行くことになりました。夏期伝道とは、神学生が夏休みの間、実践的に教会の歩みを学ぶことです。クラスの友人が北海道出身であり、出身教会の牧師が夏休みには夏期伝道として帰って来なさい、との連絡があったそうでした。しかし、彼は都合があり行くことはできません。それで、私に代わりとして行くことを願ったのです。24歳の時でした。初めて行く北海道でした。随分遠い道のりでした。上野から急行電車「つばめ」で行くと青森まで8時間を要しました。そこから青函連絡船で函館まで、舟に乗ること4時間、さらに函館本線で札幌・小樽方面行きの電車に乗ること3時間でした。日曜日の礼拝前にようやく到着したのでした。
 40日間、この教会で夏期伝道を致しました。特に中学生の指導をするようにと言うことでした。説教も1度させられました。説教学、牧会学等、まだ勉強もしていないのに、未熟ながらさせられたことは、よい経験になったようです。ところで教会には泊まるところがありません。牧師館には私が泊まるような部屋はありません。40日間、どこで寝泊まりしたかと言えば、教会の隣のお寺でした。ご近所と言うことで、牧師は和尚さんとは懇意にしており、私を引き受けてくれたようです。食事は牧師館でいただくことでした。お寺に寝泊まりしているのですが、朝から教会に行き、夜は8時すぎないとお寺には帰りません。そんな生活をすること一週間も経たでしょうか。和尚さん夫婦の他にも人がいること、家族なのでしょうが、いることに気づきました。そして、ある日、朝起きて間もなく、障子が静かに開き、女の子が箒と塵取りを差し出したのです。礼を述べ、掃除をして、用具を返そうと廊下に出ると、そこに女の子が立っていました。背をかがめていました。体が不自由のようでした。それで、和尚さんに女の子について尋ねたのです。小児麻痺で生まれ、歩くこと、手が不自由、言葉も不自由と言うことでした。それから、朝起きては女の子に会ったりすると、挨拶をするようになりました。そして、教会では中学生・高校生の修養会が開催されることになり、嫌がっていた女の子を参加させたのです。普段はほとんど一人であるのですが、いろいろな人たちとの交わりを喜んだようです。「わたしは、どうして、こんなからだなのでしょう」と言う彼女に、しばし答えられませんでした。人間はいろんな人がいて、みんな違う力を持っているのです。あなただって、あなたしかできない力があるのです、という意味の答えをしたようです。
 東京に帰り、神学校の勉学に復帰しましたが、その後彼女から手紙が来ました。和文タイプで記されていました。自分ができることを見つけるため、タイプを習い始めたことが記されていました。この感銘深いお話を、教会学校の子供たちや、礼拝において説教でも証しとして紹介しました。自分のできることを模索しつつ、一生懸命に生きている人、今でも皆さんにお話したいと思い、今日のブログに記したのでした。今年の年賀状には自作の詩が記されていました。「春光を浴びて、水受け皿から吸い込んで湿らせた鉢の土から、くっきりした葉が一つの生命を称えた。遠い昔、木琴をたたいて、心を弾ませたアマリリスの唱が聴こえる」と詠われていました。50年前の、お寺の娘さんとの出会いが、今でも年賀状で消息を知らせ合っている、主の導きであるでしょう。
彼女も年齢を重ね、今は詩人として、人生や自然を詠いつつ、まだ何かに挑もうとしているようです。改めて彼女から励まされました。もうひと踏ん張りするか。
<聖書の言葉>
むしろ、あなたがたは、「主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう」と言うべきです。
ヤコブの手紙4章15節)