鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

のど自慢 ( 喜びの叫びを )

 
 12日の日曜日も連れ合いのスミさんと二人だけの礼拝をささげたことについては日記に記しました。感想を述べると、やはり教会で会衆の皆さんと礼拝をささげることは喜びが増し加わると言うことです。たった二人だから喜びがないというのではありません。たった二人だけの礼拝の恵みを重くいただいています。教会で皆さんと共に礼拝をささげる喜びとは、大きな声で讃美歌を歌うことができると言うことです。たった二人だけの礼拝でも、ヒムプレーヤーにより声を大にして讃美歌を歌いますが、やはり、ちょっとだけ控えめに歌っています。隣近所は密接に並んでいる訳ではなく、庭と道を挟んでいますから、聞こえないと思います。それでも控えめに歌っているようです。二階の部屋にグランドピアノを置いていますが、重さ対策や防音対策を講じて造りました。しかし、集会をしている場は防音の対策はしていません。聞こえても良い、と思いながらも控えてしまうのです。教会の礼拝堂で讃美歌を歌う時、心の底から、声を大にして、神様に賛美をささげる恵みを改めて知る必要があるでしょう。
 今まではあまり見る機会がありませんでしたが、たった二人だけの礼拝をささげるようになって、外出はありませんので、お昼の時間は食事をしながら、見るともなくテレビを見ています。だいたいはNHKの「のど自慢」を見ることになります。皆さんはのびのびと歌っています。鐘がたくさん鳴る人は、本当に上手です。どこで練習をしているのでしょう。多くの場合、カラオケ店であるそうです。その店で声を大にして歌うことができるからです。若かった頃は私もカラオケ店に行ったことがあります。友人と食事をした後とか、幼稚園の教職員と会食をした後とかに行きました。カラオケは自分が自分の歌に酔いしれるのが目的なんだと思いました。私が歌っているときは、他の人は次に歌う曲探しで歌集を繰っているのです。歌が終われば拍手してくれるのですが、聞いてもいなかったのに、と思うのでした。だいたい3曲も歌えば、出番がなくなります。他の人が歌いたくてしょうがないのです。私が歌うのは千昌夫北国の春」、大川栄策「さざんかの宿」、菅原洋一「1990年」くらいかな。時には千昌夫「味噌汁の歌」、さとう宗幸青葉城恋歌」も歌いましたっけ。教職員の皆さんと出かけると、皆さんが勝手に「味噌汁の歌」をセットしてしまい、私に歌わせるのですが、むしろ私以上に夢中になって皆さんが歌います。そして、最後に「かあーちゃーん」を大合唱するのでした。圧倒されて、歌ったと言う思いはありませんでした。それにしてもカラオケ店は思いっきり歌うことができるので、心の癒しになるのでしょうね。
 カラオケ店では皆さん上手に歌っています。それだけ月謝を出しているのでしよう。昔、友人たちと年末感謝会を伊豆の温泉で行いました。小さな割烹旅館で、昔は横浜で店を開いていたのですが、伊豆で開くようになりました。横浜で開業の頃、友人たちとその店には時々行っていました。伊豆で割烹旅館を開くようになったので、年末になると友人たちと感謝会と称して出かけていたのです。ある年の感謝会で、一人の友人がカラオケセットを持ちこみました。マイクロフォンにメモリーをセットすることにより、テレビの画面を通して曲が流れてくるのです。こういう物があることを初めて知り、早速私も購入したのでした。まだ綾瀬にいる頃でしたが、カラオケセットは六浦においていました。その頃、六浦に来ては何回か歌っていましたが、盛り上がりがなく、いつの間にか戸棚に入れたままになっています。最近、全く使ってないので、時間もあるので出してみようかなとも思っています。
 カラオケは確かに発散できるので良いのでしょうが、讃美歌を歌うのとは全く違います。讃美歌は神様にささげるお祈りでもあるからです。声を大にして歌うことは慰めであり、力ともなるのです。さて、ヒムプレーヤーを出すか、マイクロフォンを出すか。
<聖書の言葉>
新しい歌を主に向かってうたい、美しい調べと共に喜びの叫びをあげよ。
詩編33編3節)