鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

クリスマス・ツリー ( 輝きを見つつ )

 
 散歩は夕刻になって出かけるのを常としています。夜になると寒くなるので、明るいうちに、暖かいうちに出かけることを連れ合いのスミさんに勧められるのですが、昼間の彷徨はなんとなく気が引けるのです。あまり人目につかない方がよいと思っているのです。今日も夕刻といっても4時頃ですが出かけました。まだ明るいうちです。次第に暗くなりましたが、暗くなると目につくのがクリスマス・ツリーやクリスマスの飾り付けです。家の玄関先に比較的小さなツリーを飾り、イルミネーションが輝いています。ある家は驚くほどの飾り付けです。こんなに華やかに飾りつけて、いったいこの家はどんな家庭なのだろうと思います。先日の読売新聞の漫画「コボちゃん」は面白く見ました。コボちゃんのお父さんは友人と居酒屋で飲んでいましたが、もう一軒行こうというわけで、入口が華やかにクリスマス飾りをしているので、ドアーを開けて入りました。その家は普通の家でした。その家のお母さんが、あまり派手に飾るからと子供たちに苦情を述べている、そんな漫画でした。本当にそういう家がけっこうあるのです。クリスマスがどんなにか喜びであるか、皆さんに知らせているのでしょうね。
 クリスマス・ツリーは、今や世界中の国々で飾られています。その大きさを競うがごとくに、とにかく人々の目を引きつけるようなツリーを設置しています。教会や幼稚園でもクリスマス・ツリーを飾り、子供たちの喜びとしていました。クリスマス・ツリーの起源は、中世の聖夜の降誕祭の序幕において行われたということです。アダムとエヴァの堕罪の物語から始められ、そこには知恵の樹(善悪の知識の樹)が飾られるのです。冬に葉が落ちてしまうリンゴの木の代用に、常緑樹のモミの木が禁断の木の実を飾るために使用されたのが由来とされているようです。それがいろいろと変化して、今日のようなツリーになって行ったようです。ツリーの一番上に飾るのはベツレヘムの星です。そして星や天使が飾られますが、金や銀のクリスマス・ボールを飾るのは禁断の木の実、リンゴをあらわしているのです。その他にはサンタクロースやローソク、プレゼント等を飾っていますが、次第に願い事が飾られるようになっています。大塚平安教会ではベツレヘムの星はもちろん飾りますが、他はキリスト教のシンボルマークを作って飾っていました。例えば、イクトゥスはキリスト教のシンボルとして飾られます。他は十字架、星、鐘等です。ツリーは主イエス・キリストの救いを証しするものなのです。
 我が家ではクリスマス・ツリーなるものは飾ったことがありません。どうして飾らないの、と子供たちから聞かれたことがあると思います。教会に飾られているからでした。教会と牧師館が同じ建物内なので、それに牧師館には飾るような場所もなく、飾りませんでした。子供たちには夢を与えなかったようで、かわいそうだったなあと思っています。
 ミシェル・バタイユの小説「クリスマス・ツリー」は悲しく美しい物語です。核実験の側にいた少年が被爆してしまい、別荘地で療養しているうちにオオカミと友達になります。クリスマス・ツリーを飾り、お父さんとお祝いをする準備を始めるのです。お父さんが留守をしており、ツリーの飾り付けをしていますが、病状が悪化して、ツリーの下で眠るように天に召されていくのでした。誰もいないのではなく、少年の周りをオオカミたちがじっと見守っていたのです。悲しい物語ですが、オオカミとの美しい友情が記されていました。ツリーはイエス様の救いを証しするものです。少年はイエス様の救いにあずかりながら天国に召されたことを、この小説は示していると思いました。
 クリスマス・ツリーは七夕飾りのように願い事をかなえてもらう飾りではありません。主イエス・キリストの救いを人々に示す証しなのです。ツリーには神様の輝きが飾られているのであり、その輝きをいただくことなのです。
<聖書の言葉>
荒れ野よ、荒れ地よ、喜び踊れ。砂漠はレバノンの栄光を与えられ、カルメルとシャロンの輝きに飾られる。人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る。
イザヤ書35章2節)