鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

クリスマス・ページェント ( 善いことを見倣いつつ )

 
 早苗幼稚園がクリスマスのページェントを行うので、ぜひおいでいただきたいとのお招きをいただき、連れ合いのスミさんと共に出かけました。午前10時からでありますが、家を出たのが9時20分頃でしたので、もしかしたら間に合わないかもしれないので湾岸線の高速道で向かい、かろうじて間に合いました。礼拝堂では、始まる直前で、ページェントを演じる年長組さんが入って来るのを待っているところでした。やがて役者の皆さんが入ってきて、所定の位置に座りました。年長さんが演じるので、年中と年少の皆さんは床に座していますが、賛美は共に歌うのでページェントの一員でもあるのです。役者の皆さんはそれぞれ自分の役を立派にこなしていました。私の隣にいた教会の婦人は涙を流しながら参観していました。皆でイエス様のご降誕物語を演じたのです。それぞれが深く胸に刻まれたことでありましょう。
 こちらの早苗幼稚園のページェント、前任のドレーパー記念幼稚園のページェント、そして宮城の古川幼稚園のページェントをそれぞれ思い出していました。比較ではなく、子供たちが一生懸命に役を演じていることです。古川幼稚園の頃、マリアさんになったお友達が、練習の時はそうではなかったのですが、本番の時、宿屋さんにヨセフさんと共に宿泊のお願いをするのですが、マリアさんは突然土下座をしてお願いするのでした。これにはびっくりしました。おそらくお母さんから、お願いするので丁寧にというわけでそのようになったのでしょう。三軒の宿屋さんの戸をたたくのですが、結局は三度も土下座をしたのでした。今頃、どんな思いで振り返っているでしょう。前任の幼稚園ではお母さん達から、お子さんが聖歌隊になり、家では大きな声で歌っていますと言われ、皆一生懸命に役に取り組んでいることを示されるのでした。マリアさんになった子供のお母さんは、「まあ、どうしましょう。うちの子で良いのでしょうか」と謙遜とも喜びともつかないご挨拶をいただくのでした。卒業した子供のお母さんからも、「あの時、羊飼いになったので、そのせいでしょうか。小さい子供の面倒みがいいんです」と言われたものです。子供たちにとって、ページェントの役柄は自分の成長に何らかの方向付けを与えられているようです。ヨセフさん、マリアさん、博士さん、羊飼いさん、天使さん、羊さん、ラクダさん、導きの星さん達は、その後も役柄的に歩んでいるとしたら、祝福だと思います。因みに、私が教会学校の頃、やはりクリスマスの祝会で劇を演じましたが、私の役柄はヨセフさんの大工仲間で、ヨセフさんの周りをせりふもなくうろうろしているだけでした。それと今とどう関わるのか。関わっているような気もするのですが。
 オーバーアマガウとは南ドイツの人口5000人の村です。そこが有名なのはその村で演じるキリスト受難劇があるからです。村全体がキリストの受難劇を演じるのです。イエス・キリスト、弟子たち、祭司や律法学者、ピラトや兵卒、マリア、イエス様に仕える女性たち等、さまざまな役割を村人全員が演じると言われています。友人の中には観劇したという人があり、その迫力に魅了されたと感想を述べていました。ところで、このオーバーアマガウを背景にした小説「宿命」を読んだことがあります。それぞれ演じた役柄が現実となっていく物語なのです。キリストになった人は、磔によって殺されていくという悲しい物語です。小説の背景は宗教的戦いであるのです。ペテロ、ヨハネヤコブ等、それぞれの運命を担うことになるのです。
 羊飼いさんになったお友達が、小さい子供たちの面倒をみるようになったということ、役柄が励ましているのでしょうか。そうであれば博士さん役になったお友達は、真理を求めて歩む人に導かれるでしょう。導きの星さんは、いつも輝く光を掲げて、その光を人々に与えているにちがいありません。ページェントに限らず、幼き時の良い示しは生涯の宝物、指針となるのです。イエス様の「人を愛する」示しは重い、大切な導きであるのです。
<聖書の言葉>
愛する者よ、悪いことではなく、善いことを見倣ってください。善を行うものは神に属するものであり、悪を行う者は、神を見たことのない人です。
ヨハネの手紙<三>11節)