鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

秋の日はつるべ落とし ( 憩わせられ )

 
 昨日は猛烈な風が吹きました。連れ合いのスミさんの要望で園芸の温室を造ったのは一昨日でした。直径1センチくらいの鉄骨を組み合わせて造り、ビニールシートを被せる簡単なものです。風に対処するために四隅に綱を張って支えています。多少の風では飛ばされないと思っていました。しかし、昨日風が吹きまくった時、飛ばされるのではないかと懸念しました。それで四隅の支えの綱を強く締めておいたのです。今日は朝から快晴で、穏やかな日を迎えました。温室は風に被害を受けることなく、井然と建ちつくしていました。あの風によく耐えたね、と褒めてあげました。自分を褒めたのかな。頑丈にできたので。
 今日は雲一つなく秋空が続いています。朝起きて、玄関先の庭で簡単な体操をしていますが、両手を振り上げて腰を折り、空を仰ぐのです。空がこんなに広いんだ、初めて知ったなんて言う言い方はおかしいのですが、今までこんなふうに空を仰いだことはありませんでした。前任の大塚平安教会時代、朝起きて幼稚園の庭で体操をすることがありましたが、空を仰ぐ時、園庭には大きな欅の木があり、空より大きく広がる欅の枝を仰ぎ見るということでした。体操が終わり、郵便受けから新聞を取り、しばし立ち読みしてから玄関を入る生活が習慣となっています。今日は青空一面の快晴ですから、スミさんから言われなくても布団を干そうと思いました。そう思っていたら、良いお天気なので布団干してね、というのです。思うことは同じというわけでが、そのつもりでいるのに、言われると面白くないというか…。
 二階のベランダが結構長いので、欄干には一度に7枚まで布団を並べることができます。ベランダは二つの部屋から出入りできるので、布団を干すには誠に便利です。朝10時には陽がさしています。しかし、午後3時には陽が陰りはじめます。ここは周囲を里山に囲まれている谷間であるからです。上の家はまだ日が射しているのに、谷間は夕暮れなのです。今は昼が短く、夜が長いのですが、さらにこの辺は暗闇が長いということです。
 「秋の日はつるべ落とし」という慣用句があります。早く日が暮れると言うことです。昔、井戸水を使っていました。井戸とは縦穴を掘って、地下にたまった水を汲みあげて使うのです。その水をくみ上げる桶を「つるべ」と言います。綱を付けた「つるべ」で水を下からくみ上げるのは、結構大変です。汲み上げた水は桶に入れ、さらに「つるべ」を下に落とすのですが、汲み上げるときは時間を要しても、あっという間に下の水に届いてしまいます。中には下に投げ込むこともあるのです。その速さが「つるべ落とし」なのです。「秋の日」は「つるべ」を落とすように早く日が暮れると言うことです。
その思い出があります。大塚平安教会に在任の頃、三番目の子供、百合子が小学5、6年生の頃ですが、教会の青年と三人で丹沢・搭ノ岳に登りました。大倉尾根を登り、また同じ道を下山するコースです。少しゆっくりめの登山であり、山頂の尊仏山荘でお弁当を食べ、下山を始めたのは午後2時頃でした。登りは5時間、降りは3時間との案内になっていますが、登りは6時間を要しました。大倉尾根は一気に降って来ることができますが、午後4時にはもう日が暮れていました。月の光の中で夜目にもなれ、ひたすら下山していました。ところが途中で7、8人のグループに追いつきました。若い人たちで、中には数人の女性がいました。彼らは懐中電灯を照らしながら、道を照らしつつ下山していたのです。先を越した瞬間に百合子が足を踏み外してしまいました。夜目に慣れているのに光を与えられた時、夜目がなくなってしまったのです。捻挫したようです。さあ、歩くのに足を引きずらなければなりません。青年と私が代わる代わるおんぶして下山したのでした。小学生なのですが、普通より太めであり、青年も私もすぐに疲れてしまうありさまでした。「秋の日はつるべ落とし」を実感したのです。
秋の夜長とも言われますが、憩いの長さの恵みとも言えるでしょう。
<聖書の言葉>
谷間を下りて行く家畜のように、主の霊は彼らを憩わせられた。
イザヤ書63章14節)