鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

歳月人を待たず ( 最初の日から今日まで )

 
 今日は何日、今日は何曜日、この意識が全く薄らいでしまいました。このブログで「朝打昼耕夕読」として記している通りの毎日になると、カレンダーを忘れてしまいます。現職の頃、朝起きれば、まず手帳を開き、今日一日の予定を確認してから動き出します。まず幼稚園に行き、8時30分から教職員礼拝があります。その後、門に立って登園する子ども達を迎えます。月に一回、水曜日は大塚平安教会婦人会の聖書を読む集いが開かれ、また月に一回の水曜日は幼稚園のお母さん達の聖書に親しむ会が開かれます。また、毎週水曜日夜は聖書研究・祈祷会が開かれます。木曜日は社会福祉法人綾瀬ホームの礼拝です。礼拝が終わると教会の家庭集会です。金曜日にはさがみ野ホームの礼拝です。そして、金曜日は幼稚園の合同礼拝です。金曜日の午後は牧師面接日になっています。その他、八王子医療刑務所や神奈川医療少年院にそれぞれ月一回出かけて行きます。さらに日本基督教団の書記として、月に二回は早稲田の教団事務局へ出かけるのでした。その他にも教会や幼稚園の集会や事務的な作業をしなければなりません。常に手帳を開いては次なる予定を確認しているのでした。だから、今日は何日、何曜日と確認しなくても、常にその日に合わせて動いていたのです。
 何の職務がなくなった時、日や曜日を知るのはゴミの処理日です。月曜日はプラスチックゴミ、火曜日と土曜日は可燃ゴミ、水曜日は缶やペットボトルの日と定められていますから、これが唯一の曜日を知る時となります。手帳には予定を書き込まなくなったので、今では朝起きても手帳を開くことはありません。たまたま手帳を開きましたら、12月2日に日本基督教団三役新旧引き継ぎ会なる予定が入っていました。忘れてしまうところでした。何も書いていない手帳ですが、それでもポチポチと予定を入れているので、時には開く必要があるのです。
 毎日、分刻みで動いていた歩み、毎日、特に予定もない歩みを考えたとき、基本的には同じ姿勢であることを示されます。毎日の歩み、日付の更新は、休むことなくやって来るのです。まさに歳月人を待たずです。早くも今日は11月30日、終末主日の最終日になります。キリスト教ではこの日をもって一年の歩みが終わり、明日からの12月は待降節降臨節、アドヘントになります。すなわちクリスマスをもって一年が始まっていくのです。主イエス・キリストがこの世に現れ、人々に神様の御心を示し、神の国に生きる喜びを与えました。しかし、人間にはどうしても克服できない課題がありました。自分を超えることです。自分の内面、自己満足、他者排除をどうしても克服できないのであります。そのため神様はイエス様を十字架にお架けになり、イエス様の死と共に人間の罪なる姿を滅ぼされたのであります。自己満足は悪でも、罪でもありません。それがないと自分を確信して生きられないのです。しかし、自己満足が高じて他者を排除して行くのであり、自分に都合が悪い存在を排除して行くことになるのです。人間は十字架を見上げては、私の罪なる姿をイエス様が負ってくださったと信じるのであります。これがキリスト教の信仰であります。しかし、キリスト教の歴史をみるとき、信仰において相手を切り捨てていく歴史があります。日本基督教団出版局が発行した「総説キリスト教史」3部作を読み終えました。主イエス・キリストが教えた神様の御心と十字架の救いを原点としてキリスト教が成立し、ヨーロッパ世界をキリスト教化します。カトリック教会、プロテスタント教会は常に宗教改革を繰り返しながら歴史を歩んできたのです。その場合、異端として、教義に反する者は断罪を繰り返しながら歩んできたのです。現在のキリスト教に至るまで過酷な歴史がありました。
 その日、この日をどのように生きようとも、歳月はめぐってまいります。自分自身をしっかりと捉えて、神様の御心に生きることであります。今日は説教になっちゃったなあ。
<聖書の言葉>
あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです。
(フィリピの信徒への手紙1章4節、5節)