鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

紅葉か枯葉か( 美しく快い )

 
 道を歩くといろいろな秋の彩りが示され、楽しみながら散歩ができます。赤い紅葉、黄色い 銀杏、色とりどりの菊の花、万両やセンリョウの赤い実、黄色い柚子等、住宅街でも秋の装いを感じることができるのです。春の華やかな花も楽しみがありますが、秋の彩りは、心にしみる思いで鑑賞するのでした。
 住宅街の秋の彩りはこじんまりとしたものですが、場所によっては大きな銀杏の木が、黄色いハンカチをはためかすように、そして根元の周辺は黄色い絨毯を敷きつめたような様は、言いようのない美しさです。大塚平安教会在任の頃、幼稚園の隣はちょっとした森でした。そこに大きな銀杏の木があり、毎日黄色い銀杏の木を眺めていました。実を拾いに来る人も結構いるのでした。大きな銀杏の木は私たちを喜ばせてくれるのですが、道路沿いの銀杏の木は、むしろ危険視されるのです。国道16号線、相模原付近には道路沿いに銀杏の木が並び、秋になると黄色い葉をなびかせているのが、なんとも良い景色でした。刑務所や少年院に赴く時、その風景を楽しみながら行き来したものです。それが、ある時、多くの枝が切り取られていました。秋になって、残されたわずかの枝に、黄色い葉が申し訳なさそうについているのです。銀杏の葉は油気があり、車の走行に危険であるということです。残念な思いを持ちましたが、事故を防ぐには仕方ないことでしょう。
 ところで、前任のドレーパー記念幼稚園の庭には大きな欅の木が二本存在しています。その太さは両手で回しても手と手がつながりません。春になると若葉が美しく、夏には緑が大きく広がって、心地よい木陰を作ってくれるのです。しかし、秋ともなると落葉の季節です。幼稚園の教職員が、毎朝のように落葉をかき集めては掃除するのです。風が吹くと四方に飛び散りますので、隣近所の庭まで落葉拾いに歩くのでした。大変だから切り倒したら、との声も聞くのですが、幼稚園の象徴のような存在になっているので、やはりこのまま残しておくことでしょう。卒業生が幼稚園を思い出す時、必ずこの大きな欅の木を思うのです。落葉で苦労しますが、しかし、楽しみも与えてくれます。山のように積み上げられた枯葉に飛び込んで遊ぶ子ども達、枯葉で焼き芋をする楽しさがありました。畑に置きたいからともらいに来る人もいました。枯葉でもいろいろと喜びを与えてくれるのです。
毎年、秋になると欅の葉を気にするのです。欅も華やかな色づきではありませんが紅葉するのです。黄色と茶を混ぜたような、淡い感じになります。ところが年によっては紅葉しないで、いきなり枯葉になっていくこともあります。紅葉した葉も枯葉も同じような色合いですが、やはり紅葉の美しさがあります。緑の葉から、装いを変えて、まだ存在をアピールしているかのようです。紅葉なのか、枯葉なのか、毎年気にしながら大きな欅の木を仰ぐのでした。
高齢者になると高齢者運転マークを車に付けることが義務づけられます。運転免許取り立ての人は若葉マークを付けることになっています。その若葉に対して、高齢者マークを枯葉マークというのは、はなはだ失礼というものです。車を運転するほどお元気なのですから、むしろ紅葉マークというべきでしょう。高齢者の美しさ、力強さ、その存在を示されるようになっています。紅葉なのか枯葉なのか、そのどちらにも存在の意味が秘められているのです。
キリスト教の教会は、もちろん若い人も多くいますが、高齢者が多くなっています。高齢になっても、なおオルガンで奏楽の奉仕をされ、聖歌隊で共に賛美をしています。愛餐会では手料理をもってこられ、皆さんに喜ばれています。いろいろな集会には率先して出席されるのです。その姿には瑞々しさを感じます。美しさも感じています。高齢者からは栄光が漂っているのです。信仰に生きる喜びを人々に示されているのです。
<聖書の言葉>
わたしたちの神をほめ歌うのはいかに喜ばしく、神への賛美はいかに美しく快いことか。
詩編147編1節)