鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

徒労なのか( 折が良くても悪くても )

 朝、ポストからずしりと重い新聞を出します。今日もたくさんチラシ広告が入っています。私の場合は、めったにチラシ広告を見ませんが、時にはホームセンターやその他のチラシ広告を見ることがあります。社会的には食品関係のチラシを一生懸命に見る人がいます。今日は売り出しで、これが安いというわけでその店に出かけるのです。だからチラシの効果があるのでしょう。毎日、チラシ広告の重みを感じながら、その意義を思ってしまうのです。先日も人と会うために横浜駅周辺を歩きましたが、チラシ広告を渡す人がいたるところに立っており、道行く人々に差し出しています。しかし、多くの場合、道行く人は差し出しても受け取らないのです。ティッシュペーパーを配っている人がいますが、それは受け取る人もいますが、最近は拒否する人が多いようです。最近はと言いますが、昔は結構受け取る人が多かったのです。チラシ広告も受け取るのが普通でした。今はチラシ広告を配布する人が多すぎるからでしょう。一生懸命に配布している姿を見て、受け取ってあげることにしています。特にティシュペーパーを配布していると、こちらから手を出して積極的に受け取っています。どんな広告でもよろしいのです。この人たちはアルバイトで配布しているのですが、ノルマがあるのでしょう。以前は見えない所でチラシをゴミ箱に捨てました。しかし、今はゴミ箱なるものがあまりおかれてないのです。唯一おいているのはコンビニというわけです。
 大塚平安教会に在任している頃、クリスマス、イースター、伝道集会、チャペルコンサート等の開催の度にたくさんのチラシを作り、教会の皆さんが周辺に配布しました。チラシによる来会者はほとんどいませんでした。チラシ配布より一人が一人を誘いましょうということにしたのです。開拓伝道をしました。集会案内を1千枚も作り、周辺の家に配布しました。そういう努力をしての集会ですが、チラシを見ての来会者はいません。ある時はマンションの管理者から電話があり、玄関ホールの住民ポストにチラシを入れたものですから、叱られてしまったのです。菓子折をもってお詫びに上がり、チラシを回収してきたこともありました。徒労と思えるチラシ配布でありますが、ある時、一人の来会者がありました。チラシを見ての来会でした。1千枚配布して、たった一人とは思いません。貴い一人の来会者でありました。徒労と思えることですが、続けることであることを示されたのであります。
 徒労と思えることを続けることは大切なことです。先日、ノーベル賞をいただいた人がテレビの取材に応じていました。ノーベル賞をいただいたのは今回お二人でしたが、そのうちのお一人の方が言われていました。研究というものは、傍から見れば徒労と思えることでありますが、長い研究の成果が新しい発見につながるのですと言われ、だから無駄と思える研究を見守り続けることが必要であると言われたのです。まさにその通りだと思います。
 事業仕分けが行われています。今まで取り組んできた事業を見直すということですが、確かにそれは必要なことでしょう。しかし、ここで決められてしまう廃止や縮小によって、真実が廃止されてしまうのではないかとも思いました。見直すことにより、無駄であると判断するのは、徒労と思える取り組みを排除することなのです。徒労なのかもしれませんが、いつか新しい発見になり、新しいものが芽生えてくるのではないでしょうか。事業仕分けより、政治家のお金の仕分けこそしなければならないことなのです。
 傍から見れば無駄な人生であり、愚かに見えますが、信仰に生きるということは、その人にとって祝福の人生なのです。日曜日ごとに教会に通うこと、時間の無駄使いといわれるでしょう。しかし、無駄と思える時間ですが、一週間の力の源泉になるのですから不思議ではありませんか。「日曜日は教会へ」とのお誘いは、徒労と思えるお誘いなのですが。
<聖書の言葉>
御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。
(テモテへの手紙<二>4章2節)