鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

今日も一日生かされて( せん方つくれども )

 
 本日は11月の第一日曜日です。日本基督教団はこの日を「聖徒の日」(永眠者記念日)としています。前任の大塚平安教会では「召天者記念礼拝」として、この日を迎えていました。教会員として信仰の人生を歩み、今は天におられる皆さんのお写真を飾り、召天者を覚えながら礼拝をささげました。午後からは墓前礼拝で出かけました。教会から車で30分くらいの距離にある厚木霊園に納骨堂を設置していますので、墓前の礼拝をささげるのであります。本日は大塚平安教会の皆さんが、召天者を覚えつつ過ごされたと存じます。
 本日は横須賀上町教会で召天者を覚えつつ礼拝をささげました。その礼拝の中で、横須賀上町教会員として歩んだ叔母の証をさせていただきました。それについては本日の説教を参照してください。召天者を記念するこの日、私は姉・美喜子の証を示されています。姉の証を記すことで記念としたいのです。
 姉・美喜子は1997年2月18日、68歳で召天しました。15年間、リュウマチの病と闘いながらの生涯でした。発病するのは1981年でありました。膝に水がたまるということで病院に通い始めました。その時点でリュウマチと診断されたと思いますが、姉自身も積極的に病を受け止め、いろいろな治療法を試みました。しかし、病は進行して行きます。痛い足を引きずり、動かない手を無理に動かしながらの生活でしたが、入院生活を余儀なくされていくのです。手足が動かなくなる時、金具を埋め込んでは補強されていました。弱っていく体全体を受け止めながら、姉は信仰に生きる喜びを証しつつ天に召されていったのであります。そのような体でありますが、最後まで信仰の証をノートに書き綴っていました。姉の日記を紹介しましょう。
 1993年12月24日
 6時15分起床。ここのところ朝とても冷える。今朝も3度位だった。寒くても早く起きれて感謝。父より早く起きてストーブをつけて御湯を沸かす。今日は私の誕生日。もう65歳になってしまった。人の年のように思える。退院後、元気になって誕生日を迎え感謝。神様の癒し、皆様のお祈りを心から感謝する。夕食にお寿司を取って父とささやかな誕生会をする。食前の祈りを私がすると、父は「アーメン」と言ってくれた。その後、年賀状6枚書く。今日も一日守られて感謝。
 1994年4月6日(父が入院しているので、見舞いに行った日記です。)
 高橋さん、伸治、百合子、みんなで私を父のところを連れて行ってくれる。車椅子ごとワゴン車に乗せてくれて感謝。父は想像したより顔は良かった。でも口はきけなくて、苦しそうな呼吸だった。私が話しかけたら、顔を私の方に向けて目を開けてくれた。私を分かってくれた。目は静かで穏やかで、やさしかった。私が手や顔をさわって、親不孝のお詫びとお世話になった御礼を言った。涙が出て仕方なかった。ベッドの枠につかまって、やっと立つ。スミさんが支えてくれた。30分位いて帰る。スミさんが病院について来てくれた。私が落ち着くまでいてくれる。父に会えてホッと安心する。皆の愛を心から感謝する。今日も一日守られて感謝
 姉・美喜子の日記は多く残されていますが、日記の終わりには必ず、「今日も一日守られて感謝」と記しています。自らの病の中で両親を順次送ったのでした。そして、痛む病と闘いながら、神様を信じ、主イエス・キリストの十字架の救いを受け止め、喜びつつ信仰の人生を歩んだのであります。姉の愛唱聖句は、「せん方つくれども希望(のぞみ)を失わず」と言う文語訳の聖書の言葉でした。どのような状況になりましょうとも、神様の元にある永遠の生命に希望を持って、この世の人生を歩んだのです。
<聖書の言葉>
わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰らず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています。イエスの命がこの体に現れるために。
(コリントの信徒への手紙<二>4章8節〜10節)