鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

飾り物( 誇るべきものを見つめつつ )

 
 どなたの家も飾り物が多いことでしょう。飾り物は自分が趣味として集めなくても、いつの間にか増えてくるのです。旅行に行けば、記念として買い求めますが、知人がお土産にくださるので、飾りきれないほどになっています。大塚平安教会に在任している頃、牧師室の一角は飾り物であふれていました。私の趣味ではありません。連れ合いのスミさんが居間には飾りきれなくなって、ついに牧師室に進入してきたのです。そうは言うものの、すべてがスミさんの思い出の飾り物ではなく、私自身の飾り物もありました。外国旅行をされた方からのお土産の飾り物があり、自らの思い出も飾っていたのです。聖地旅行でシナイ山に登りましたが、記念にいくつかの石を持ち帰りました。また死海の塩水をペットボトルに入れて持ち帰りました。死海では忘れられない出来事がありました。死海は塩分が濃く、浮遊することができます。しかし、海底はごつごつした岩でした。浮遊がうまくできず、急いで立ち上がろうとした時、海底の岩に足の指を打ちつけたのでした。指と指の間がえぐれるように切り裂かれています。不思議なことに血が出ませんでした。強力な塩分が治癒効果となったのです。旅行中、足を引きずるようでしたが、化膿せずに済みました。記念の海水は治癒剤として飾っていたのですが、引越しの際に処分しました。誰かが誤って飲んでしまうかも知れないと思ったからです。
 3月末に大塚平安教会とドレーパー記念幼稚園を退任した時、皆さんからの贈り物や写真をいただきました。そして9月末には横浜本牧教会と早苗幼稚園を退任した時にも贈り物や写真等をいただきました。それらはリビングに飾られており、何処に顔を向けても思い出が迫ってくるという状況になっています。これらの飾り物がなくても、いつまでも忘れられない皆さんとの出会いでありました。飾る場所がなくて、大変申し訳ないのですが、トイレに棚を作り、そこにも飾らせていただいています。なるべく書斎には飾り物を置かないようにしています。机に向かって執務している時、思い出ばかりが甦ってきて、本来のことができなくなるからです。しかし、そうは言うもののいくつかの飾り物があります。
 一つは、高さ35センチの鳴子こけしです。東京の青山教会に4年間勤めた後、宮城県の陸前古川教会に赴任しました。仙台の北の中心地が古川市でした。礼拝出席は20名前後であり、今でも送られて来る週報を見ると、今も変わらず20名前後の礼拝出席のようです。少人数ですから家族的な教会でした。その教会でも壮年会が、定期的ではありませんが、時には集いを開いています。なぜか、10名くらい集まるのです。礼拝には出席しませんが、壮年会の集いには必ず出席される方がおられるというわけです。ある時、学校で絵画を担当している方の家で集いが開かれました。その方の家に飾られていた鳴子こけしを贈呈してくれたのです。こけしの下には皆さんのサインが入っており、今日まで書斎の主役のような飾り物になっているのです。
 もう一つの主役的な飾り物は、帆船と言うにはお恥ずかしい作品ですが、自作のものです。これは中学生の時に作ったものです。もはや古めかしく海賊船のような存在になっていますが、中学生でよくも細かいものまで気がついて作り上げたものだと、自分ながら感心しています。私の母の父、つまり祖父が船大工であったと聞いています。私が生まれたときにはおりませんでした。従って、帆船を作った時、祖父の血が流れていると言われたのでした。戸棚の中には船大工の道具がたくさん残っていましたが、今の家に改築するにあたり、処分してしまいました。置いておく場所がないからでもあります。祖父の血が流れていると言っても、手先の仕事はあまり得てではありません。むしろ不器用とも言えるのです
 飾らなくても飾られているものがあります。目には見えませんが、はっきりと見えているのです。ある時は大きく見えます。時には小さく見えます。お分かりですか。十字架です。
<聖書の言葉>
このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。
(ガラテヤの信徒への手紙6章14節)