鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

携帯電話考( 御心は何ですかと問い )

  
 今日は二つの会議がありました。一つは教団の三役会です。いつもは午後1時30分から開かれるのですが、今日はそれぞれ都合があり午前10時から開かれました。そして終わったのが午後1時30分でした。そして、次の会合は午後5時30分からです。それぞれ都合のある皆さんですが、私は都合はなく、むしろ夕刻まで何をして過ごそうかと思案するところであります。とにかく、用もないのに教団事務局にいるわけにもいかず、早稲田から渋谷に出ました。
 午後の渋谷駅周辺は、日曜日でもないのに、こんなに賑わっているとは知りませんでした。なんとなく徘徊しているとき、ふと昔のことが甦ってきました。もう、30年も昔のことです。大塚平安教会における笠倉正道さんについては、既に記しています。大学を合格したばかりの彼が、腰の腫瘍で横浜市大病院に入院していました。30年前、会議があり、終わってから渋谷で食事をすることになったのであります。どこの店にするか、数人で探しながらそぞろ歩きをしていました。その時、ポケットベルが鳴りました。昔は携帯電話はなく、ポケットベルが普及していたのです。ポケットベルは電話ではなく、呼び出しの音なのです。呼び出し音があったら、画面に何番からの呼び出しが出ますから、そこに電話するのです。自宅からの呼び出しでした。すぐに公衆電話から電話しますと、笠倉正道さんが危篤であるとのことでした。仲間に事情を話し、すぐにタクシーで渋谷から横浜市大病院を目指したのでした。
 危篤でありましたが、お医者さんの処置により持ち直していました。しかし、その夜は病院のロビーで過ごしたのでした。その時、ポケットベルのありがたさを知ることになりました。ポケベルを持ってなかったら、彼の危篤にかけつけられなかったのです。それにしてもポケベルもない頃は、連絡が困難であったことは確かです。出張するときは、何処に行き、そこの電話番号まで知らせ、何時には帰宅すると告げては出かけていたのです。ポケベルを持つようになってからは、そこまではしなくなりました。しかし、会議中でも鳴ることがあり、ポケベルにはマナーモードがないので、困ることもありました。何でも新しい機種には興味を示しています。ポケベルも出始めてすぐに使うようになり、携帯電話も比較的早期に使用しています。
 携帯電話はいつでも、何処でも連絡が取れて便利なことは確かです。また、連絡ばかりではなく、さまざまな機能が付くようになり、今では携帯電話がなければ生きていかれないほどです。しかし、つらつら思うことは、便利さが思考力を減退させているような気も致します。以前は用事があれば手紙で内容を知らせます、受け取った人は、しばし考えながらそれなりの返事を書くのでした。電話はその場で決めていくものであり、そのためには事前に考えておいて、電話でのやり取りになるのでしょう。緊急の呼び出しならともかく、こちらの都合もあるのに、電話があると困ることもあるのです。もちろん、電源を切ったり、マナーモードにはしてあるのですが。携帯電話のメールは、その点便利です。メッセージを読み、後で応対できるからです。携帯電話にはナビゲーション機能もあり、道案内もしてくれます。これだって思考力を減退させているでしょう。もっと自分で調べて、周囲の状況などを探索しながら目的地に行くべきではないでしょうか。いろいろと携帯電話を批判していますが、結構楽しんで使っています。電車の中で、ブログを読んだりすることもできるからです。それにしても、電車に乗ると異様な感じがします。ほとんどの人はと言えば大げさですが、携帯電話とにらめっこしている人があちらこちらにいるのです。周りの景色を見たり、もっとのんびりと電車に乗ることではないでしょうか。年寄りのたわごとを述べてしまいました。
 渋谷での空き時間をどうしたか。昔、行ったことのあるサウナに行きました。その付近は全く変わっていましたが、新しいサウナができており、ゆっくりとくつろぎました。
<聖書の言葉>
自分自身と教えとに気を配りなさい。そうすれば、あなたは自分自身と、あなたの言葉を聞く人々とを救うことになります。
ヨブ記31章35節)