鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

神様の憐れみ…(テレフォンメッセージ 5 )

テレフォンメッセージより。
 
「神さまの憐れみ」
聖書を読みますと、いろいろな形で神さまの深い憐れみが記されています。イエス様も教えの中で神さまの憐れみを示しています。ルカによる福音書15章に「放蕩息子」のお話があります。ある人に二人の息子がいました。弟息子は父に自分がもらうべき財産を要求し、家を出て行ってしまいます。遠い国に行き、好きなこと、放蕩ざんまいに過ごすのです。そして、無一文になります。誰も相手にしてくれなくなります。状況的にもどん底になったとき、父を思い起こします。そして、たとえ雇い人でもよいから父のもとへ帰ろうと決心するのです。帰りの道すがら、父へのお詫びの言葉を考えながら家に向かったのです。一方、父はお金を持ってさっさと家を出て行った子どもですが、いつか帰ってくると思っていました。そして、首を長くして放蕩息子の帰りを待っていました。そして、ついに息子が帰ってきたとき、その姿は落ちぶれて見る影も無いのですが、しっかりと抱きしめ、帰ったことを喜んだのでした。これはイエス様のお話です。このお話の父とは神さまですよ、と教えています。父親はこの放蕩息子に対して苦言を言うか、怒るか、家には入れないかであっても当然なのです。しかし、悔い改めて帰ってきた放蕩息子に諸手を上げて迎えたのです。ここに憐れみ深い神さまの姿があるのです。神さまは、もし悔い改めて神さまのお心に立ち返るならば、私たちのすべてを受け入れて下さるのです。だから、私たちはその神さまに嘆願の祈りをささげましょう。私たちがどんな姿であろうとも、神さまに心を向けるならば、必ず私の声を受け止めてくださるのです。苦しいことがありますか。悲しいことがありますか。つまらないことがありますか。それらの思いのすべてを神さまに申し上げるのです。憐れみの神さまは私のすべてを受け止めてくださいます。

聖書の言葉
「わたしたちは、あなたの深い憐れみのゆえに、伏して嘆願の祈りをささげます。」
(ダニエル書9章18節)