鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

恵みと真…(テレフォンメッセージ 2 )

テレフォンメッセージより。
 
「恵と真」
新しい年と言っているうちにも、早くも三週間目となっています。いつまでも新年と言っているわけにはいきません。ある人が、太郎さんと言いましょう、お正月に新しい服、新しい下着を着て、すがすがしい思いで新年を歩みだしました。1月2日になりましたが、服や下着は昨日おろしたばかりです。今日も同じ下着、洋服で過ごします。1月3日、着るものはまだ汚れていません。何しろ、お正月に新しい下着、洋服を着たのです。こうして太郎さんは新しい下着、洋服と言うことで毎日着ており、ついに一ヶ月もたちました。太郎さんは人の集まりに出席しました。やはり皆さんは晴れ着を着ているようです。太郎さんも新しい洋服、下着を着ていると自負していました。人と話していると、何となく嫌な顔をするのです。失礼な、と思っていました。ところが、一人の友達がはっきり言うのです、「太郎さんは汗臭い」と。太郎さんは言われて自分でも洋服の匂いを嗅いでみました。本当に汗臭いのでした。お正月に新しい服を下ろしたのに、どうしてだろうと思うのでした。このお話しは笑い話です。新しい服といっても、古くなっていくのです。だから洗濯すれば、また新しくなるのです。体も同じで、お風呂に入ればきれいな体になるのです。こうして私たちは服を洗濯し、体はお風呂に入り、新しい生活をしているのです。それでは私たちの心はどのようにして新しくするのでしょう。私たちの心の新しさは、言うまでもなく、イエス・キリストのお心をいただくことです。私たちはいつも自己満足に生きていますから、いつも自分中心に物事を考えてしまいます。それに対して、聖書は新しい人の定義をしています。それは、いつも人を見つめることなのです。お友達を受け止めて、その存在を理解することなのです。そういう新しい心になるのは、イエス様のお心へと導かれることなのです。新しいお心をいただいても、人間はすぐに古い姿、自己満足の姿に戻ってしまいます。そこでまた、イエス様のお心をいただくのです。具体的には毎週日曜日に礼拝をささげることです。キリスト教の人々が日曜日になると教会に行くのは、新しくなるために行くのです。新しい姿でこの一年を歩みましょう。
聖書の言葉
「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真とはイエス・キリストを通して現れた。」
ヨハネによる福音書1章17節)