鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

神の霊に導かれ…(テレフォンメッセージ 1 )

風邪を引くこと二週間、ようやく収まってきました。丁度、幼稚園の卒業式、終業式、同窓会等があり、風邪だからと寝ているわけには行かず、しかし、合間を縫っては横になっていました。そのため、この日記も3月14日を最後にお休みとなってしまいました。昨年、6月から初めて、何とか一年間は書き続けることを目標にしていますので、ここで途絶えてはなんとも残念なので、日記ではありませんが、テレフォンメッセージを残していますので、書けなかった日に埋め合わすことにいたしました。
テレフォンメッセージの聖書の言葉は、ヘルンフート兄弟団が作成しているローズンゲン、「日々の聖句」によります。これは毎年発行されていますが、ほとんど聖句は同じになっています。従って、テレフォンメッセージも同じ聖句とともに同じ内容のメッセージをお話していることになります。またか、と思われている方もあるでしょう。一年間お話しをした内容は、次の年も同じようにお話しているからです。しかし、何度も同じお話しですが、その都度、改めてみ言葉に向かっていただきたいのです。
「日々の聖句」はローズング(ローズンゲンは複数)とは、「合言葉」あるいは「くじ」などという意味です。その日与えられた聖句のもとで、一日、村中が祈りをあわせて頑張りましょう、ということで始まったといわれます。ヘルンフート兄弟団では、毎年、それぞれ、その日のために旧約聖書から「くじ」で聖句が選ばれます。人間の思いを超える神意として、私たちに与えられるのです。これにあわせて、新約聖書からも聖句が選ばれるのです。大塚平安教会はローズンゲンの聖句をもって「今週の聖句」とし、テレフォンメッセージの聖句としているのです。二週間の埋め合わせとして、今までのテレフォンメッセージを記すことにいたします。
 
「神の霊に導かれる」
イエス・キリストが社会の中に現れるのは、大体30歳頃と言われています。そして、現れて3年間、人々に神さまのお心を示し、また神さまの業を行いました。新約聖書の始めに四つの福音書がありますが、いずれも3年間のイエス様について記しているのです。しかし、まったくそれ以前のことが記していないと言うのではありません。クリスマスで示されましたように、マタイやルカは誕生について記しています。そして、イエス様の洗礼についても記しています。青年になったイエス様がヨハネから洗礼を受けるのです。ヨハネはイエス様より先に現れて、罪の赦しの洗礼を授けていました。そのヨハネのもとにイエス様も洗礼を受けに来るのです。洗礼は神さまのお心に反して生きる人が、悔い改めとして受けるのです。そうするとイエス様も罪があったのかと思います。ヨハネはイエス様が救い主であることを知っていますから、イエス様に洗礼を授けることを辞退するのです。しかし、イエス様は強く求めましたので、ヨハネはイエス様に洗礼を授けたのでした。イエス様は神の子ですが、地上に生きる時、一人の人間として生きるのです。イエス様に罪があったとか無かったとかを考える必要はありません。一人の人間とし、罪を生み出す人間の本質的な姿において洗礼を受けたのです。聖書のお話をする場合、私たちの罪の問題に必ず触れなければなりません。私たち人間は生まれながらの姿は常に自己満足なのです、自己満足が罪であるとは言えません。しかし、自己満足が大きくなると他者排除となるのです。それが罪だと指摘されます。聖書からそのように示されているとき、教会に来られる人の中に、私は罪がありませんから、と言われることがあります。罪とは社会的に悪いことをした人だと思っているのです。そういう意味でもイエス様が罪を持つ人間として洗礼を受けたことは、とても大事なことです。そして、そのイエス様が私たちの罪を十字架で贖ってくださったのです。罪を持つ人間として自分を見つめて見ましょう。
聖書の言葉
「神の霊によって導かれるものは、みな神の子です。」(ローマの信徒への手紙8章14節)