鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

信仰とは…(姉・鈴木美喜子の証)

2月18日になったら、私の姉の証を記しておこう、と思っていましたが、いつの間にか忘れていました。今日になって思い出しました。「日曜日は教会へ」の日ですが、日曜日は必ず礼拝に出席していた姉の証を記しておきましよう。
私の姉・鈴木美喜子は1997年2月18日、68歳で召天しました。約15年間、リュウマチを患っての召天であり、病に臥してなお信仰に力強く生きた姉でした。姉は日本の敗戦後まもなく従姉妹が横浜の清水ヶ丘教会に出席するようになり、誘われていくようになりました。そして教会生活をするうちに導かれ、洗礼を受けたのです。日曜日になると必ず礼拝に出席していました。その頃、私は姉の通っている教会ではなく別の教会学校に通っていました。中学生になってから姉が通う教会に行くようになるのです。その頃は二番目の姉も教会員になっており、三人で清水ヶ丘教会に出席していました。姉は教会から帰ると、母にすべてを話していました。牧師の説教をおさらいするかのように、始めから終わりまで母に話して聞かせるのでした。母もよく辛抱して聞いていたと思います。そして、312番「いつくしみ深き」を二人で歌っていました。
私が決心をして牧師になろうとしたとき、両親は良い返事ではありませんでしたが、むしろ姉が両親を説得してくれたのです。私の中にも迷いがありました。5人姉弟で、兄は亡くなり、上3人の姉のうち二番目と三番目は結婚して家を出ています。私が牧師になって家を出た場合、高齢化しつつある両親をどうするか、との思いがありました。そのような迷いを持つ私に、両親とは自分が一緒にいるから、あなたは神学校に入り、牧師になりなさい、と言ってくれたのです。そして私は神学校に23歳で入り、そのまま家から離れたのです。東京の青山教会に4年、宮城県の陸前古川教会に7年おりました。神様のお導きと信じておりますが、現在の大塚平安教会に赴任したとき、ほっとしたわけです。横浜市金沢区の実家には近くになったからです。その頃の両親は二人とも82歳になっていました。長姉は結婚せず、ずっと両親と共に過ごしていたのです。
私たち家族を待っていたかのように、1979年に大塚平安教会に赴任してまもなく、姉はリュウマチを患うようになったのです。姉はその頃は52歳になっていました。東洋医学が良いというので千葉の病院にいきました。そこは漢方を用いての治療でしたが、断食療法でもあり、がちがちに痩せこけて帰ってきました。やはり西洋医学に頼ろうと言うことで、いくつかの病院にかかりました。次第にリュウマチが進行し、体のあちらこちらに金具を埋め込んで骨を補強しながらの療養でした。もはや寝たきりとなり、一時は実家で療養し、二人の姉や連れ合いが交代で介護したりしましたが、病院で療養せざるを得ませんでした。長く入院出来ないので、いろいろな病院を転々としたのでした。
姉は苦しい療養でしたが、いつも日記をつけていました。その日記も次第に握力が無くなっていく手で書いています。そして、日記の最後には「今日も一日生かされて感謝」と記すのでした。姉の闘病生活を支えたのは、「せん方つくれども希望(のぞみ)を失わず」(第二コリント4章8節)の聖書の言葉でした。これは文語ですが、口語で記せば、「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰らず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています。イエスの命がこの体に現れるために。」
姉の祈りと励ましにより私の牧師への道が開かれていったのです。姉には尊敬の思いと感謝の念を忘れません。1997年5月17日に神奈川教区横浜地区婦人委員会から依頼されて講演をいたしました。題して「今日も一日生かされて」(姉・鈴木美喜子の証)です。1998年6月13日に姉の記念会を開催するにあたり、講演した内容をプリントしました。多くの皆さんに読んでいただき、私の姉への感謝としたのでした。信仰の力を姉から示されたということです。
聖書の言葉
「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(ヘブライ人への手紙11章1節)