鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

働き人が少ない…(日本聖書神学校卒業式)

日本聖書神学校の卒業式が本日午後6時30分から行われ、出席しました。今回は私自身この神学校の卒業生ですが、日本基督教団を代表してお祝いを述べるためでした。教団は数年前から神学校の卒業式に出席することにしており、三役・幹事が分担してそれぞれの神学校卒業式に出席しています。今年は私が日本聖書神学校に行くことになったのです。
久しぶりにJR目白駅を降り、神学校への道を目白通りに沿って歩きました。随分と町並みが変ったと思いました。久しぶりといっても二年前には神学校に行っております。最終学年のフィールドワークゼミの責任を持たされたからです。「教団の課題」というテーマでお話ししました。二年にわたってお話しましたが、昨年は教団議長が担当したので、私が神学校へ行く機会がなくなったわけです。神学校への道沿いの町並みが変ったというのは私が在学していた頃と比較しているのであり、それは40年前のことなのです。従って、当然といわなければなりません。それぞれの店も建て替えたり、新しい店舗になったりして変わって行ったのです。そんな中で、ほとんど変らない店がありました。古本屋の夏目書店でした。40年前とほとんど変らない店構えでありました。古本屋はこの店しかなく、昔はよく出入りしました。時には聖書注解書や神学書が並んでいるのです。神学生の誰かが売ったとも考えられますが、書店が神学校があるので、どこからか仕入れてきたのかも知れません。
神学校の卒業式は目白教会で行われました。神学校の礼拝堂、図書館が新しく建設中であるからです。礼拝堂、図書館を建て替えることになり、最後の礼拝の案内を通知されましたが、残念ながら出席できませんでした。礼拝堂にしても図書館にしても思い出が沢山あります。
「第59回卒業式」との看板が会場入り口に立ててありました。私が卒業したのは21回生ですから、その後随分と卒業生を送り出したものだと思います。卒業生は約660名になるようです。校長が卒業証書を渡すとき、卒業生番号も読み上げていました。今年は9名の卒業生でした。平均すると毎年11名の卒業生を送り出していることになります。
私が神学校に入学したときの校長先生は金井為一郎先生でした。しかし、入学して半年で召天されました。次の岡田五作先生の時代に卒業したのです。私は神学校に6年間在学しました。卒業するとき岡田校長が卒業生に色紙を下さり、私への色紙には「この一事を務む」としたためられていました。今日までこの言葉の重い意味を受け止めながら牧師として歩んでおります。この言葉を卒業生の皆さんにそのまま贈りました。そして、忍耐を持って教鞭をとられた教授、先生たちの指導を基とするよう励ましたのでした。実際、私自身、在学中に教鞭をとられた教授・先生達は召天されています。岡田五作、高柳伊三郎、藤田昌直、浅野順一、園部不二夫の先生方です。今ではこれらの先生方の教鞭が目に見えない宝物となっています。だから、今、この講壇上にいる教授の先生たちも、いずれは召天されてしまうので、見えない宝物をいただいたのですから、それを基として伝道者として励んで欲しい、と述べたのです。(教授の召天のくだりについては出席者が笑っていました。)
大塚平安教会と日本聖書神学校は歴史を通して繋がりをもっています。教会の開拓時代を担ってくださった高柳伊三郎先生は神学校の教授でありましたし、当教会の担任教師を勤められた川島貞雄先生は日本聖書神学校の教授にもなられました。私の前任牧師・乙幡和雄先生はこの神学校の卒業生であり、そして私も同じ卒業生なのです。大塚平安教会からは森田裕明、佐竹拓平の両名が日本聖書神学校で勉学し、今ではそれぞれ牧者として勤めています。そして、うれしいことは、教会員の小林美恵子さんがこの4月から日本聖書神学校に通うことになりました。
日本基督教団には1,700の教会・伝道所があります。しかし、その20%が牧師不在なのです。伝道者・牧師を育てなければならないのです。
聖書の言葉
「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」(マタイによる福音書9章37-38節)