鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

わたしの金を銀行に…(金融機関の変遷)

2月は「逃げ月」と言われ、今日で2月も終わりです。新年と思っているうちにも二ヶ月が過ぎてしまいました。月末であり、今日のうちに幼稚園の金銭関係を処理する必要があり、横浜銀行さがみ野支店、静岡銀行大和支店を回りました。朝のうちに行ったので、どちらの銀行も空いていました。この二つの銀行は、私が28年前に教会、幼稚園に赴任して以来、変遷しています。赴任した頃の横浜銀行は、「大塚本町」信号を座間に向かって進み、相鉄線踏み切りの手前・左側にありました。今は住宅となっていますが、幼稚園からも近いところにあったのです。静岡銀行は「大塚本町」信号を大和方面に進んだ左側にありました。どちらも近くて便利でありました。それが今では横浜銀行さがみ野駅付近に引越し、静岡銀行は鶴間に引っ越してしまいました。いずれも遠くに移ってしまい、不便になったというわけです。遠くになって不便ですが、横浜銀行さがみ野駅周辺にいろいろな店があり、本屋さんもあるので、ついでに立ち寄ったりもするのです。また、静岡銀行は鶴間のイトーヨーカ堂の建物に並び、銀行に行ってはショッピングをしてくるので、その点は便利というわけです。
赴任した頃、幼稚園の保育料の銀行自動引き落としについて、両銀行から勧誘されていました。その頃は園児が180名もいたのですから、これは銀行としても狙いたいのです。横浜銀行にしても静岡銀行にしても、私がそれぞれの銀行に行くと、支店長が出てきて、カウンターの中に導き、お茶まで出してくれました。出し入れは銀行の人が手続きをしてくれたので、私はお茶を飲んでいればよかったわけです。自動引き落としについては、なかなか判断が付かないでいました。その頃、横浜銀行が転居することを噂に聞いたので、支店長にそれとなく聞くのですが、まったく無いかのような回答でした。しかし、噂は本当であり、さがみ野駅付近に転居してしまったのです。それで決心をしました。保育料の銀行自動引き落としは静岡銀行にしたのでした。この自動引き落としについては数年後に止めました。その頃の自動引き落としは、今のように何回も引き落としをせず、一度引き落とし、引き落とせない場合は幼稚園の窓口扱いとなっていたのです。引き落としできなかった家庭をチェックするのも大変でした。それで、それからは幼稚園窓口に直接納入していただくようになったのです。集まった保育料等は銀行員が取りに来てくれていました。
ところが、その静岡銀行も鶴間に転居してしまいました。瀬谷支店とさがみ野支店が合併して大和支店となったということです。さがみ野支店の頃は、私が幼稚園の金銭を出し入れしていましたので、行員も顔見知りとなり、取引がしやすかったことは確かでした。鶴間に引越し、大変不便になり、行員の顔見知りもいなくなってしまったというわけです。数年前から再び銀行の自動引き落としを始めました。今の時代は随分と引き落としが良くなっていますが、複雑な組織となってよく分からないという思いでした。それで、2、3年で静岡銀行の引き落としは止めてしまい、すぐ目の前にある郵便局の引き落としとしたのでした。今でも両銀行とは取引をしていますが、近くの他の銀行により日常の業務を行うようになっています。因みに、平塚信用金庫は厚木信用金庫があったところです。
幼稚園のすぐ前が郵便局なので、何かと便利です。最近は郵便局の取引を多くしています。この郵便局の前の局長さんとはご近所でもあり、ご近所のお付き合いをしていました。その局長さんが郵便局を建て替え、今のような建物になったのでした。数年前に逝去され、さびしい思いをしております。
今日は金融機関の紹介をしているようですが、歴史の流れを記しておきたかったのです。
聖書の言葉
「それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付で返してもらえたのに。」(マタイによる福音書25章27節)