鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

他者を祈れとイエス様が…(幼稚園の豆まき)

今日は幼稚園の教職員礼拝を終えてから、すぐにさがみ野ホームに出かけ、利用者と教職員の合同礼拝を行いました。そして、すぐに幼稚園に戻り合同礼拝です。今日は合同礼拝に続いて「豆まき」行事をしました。節分の豆まきは2月3日に神社や寺で行われますが、幼稚園でも行っています。キリスト教の幼稚園が、どうして「豆まき」をするのかと問われます。実際、キリスト教の信仰を持つ保護者が、ご夫婦で園長に聞きにこられました。「豆まき」は神社や寺でするものであり、キリスト教の幼稚園で行うのはよろしくないとの事でした。そうではありません。「豆まき」は聖書の教えをよりよく教えてくれるのです。
イエス・キリストが世の人々に現れる前に40日間の修行をしました。断食をしての40日間でありました。修行が終わると、悪魔が現れます。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」と誘惑するのです。今後、人々の前に現れ、神様のお心を示す働きのために体力をつけねばなりません。食べることが何よりも必要であったのです。それに対してイエス様は、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」との旧約聖書の言葉を引用して誘惑を退けたのです。食べて体力をつけることは必要なことですが、それ以上に心を養い、人間性を高めることが大切なのです。次に悪魔は、都の高い建物の上にイエス様を連れて行きます。そして、「神の子なら、飛び降りたらどうだ。神が石に打ちあたる前に、天使たちを遣わして支えてくれる」というのです。神が守ってくれるから、飛び降りろというわけです。それに対して、「あなたの神である主を試してはならない」と、やはり旧約聖書の教えを引用して悪魔を退けるのです。つまり、いつも恵みを与えられているのに、さらに神様を試すことをしてはならないということです。次に悪魔はイエス様を非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」というのです。それに対して、イエス様は「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』」と誘惑を絶つのでした。悪魔、サタンの登場でもありますが、これはイエス様の内面的な戦いでもあったのです。人間が持つ誘惑をまず退け、神様のお心を人々に示されたのでした。(マタイによる福音書4章1-11節)
「豆まき」では、まず子ども達は作った鬼のお面をかぶり、園長から豆(殻つきの南京豆)を投げられます。「わがまま鬼、出て行け」「意地悪鬼、出て行け」「欲張り鬼、出て行け」と言いつつ豆を「やさしく」投げてあげます。子ども達はきゃあきゃあいいながら逃げ惑います。豆をまき終わったとき、教師が何人かの子どもに、「どんな鬼が出て行きましたか」と聞くと、「わがまま鬼が出て行った」と答えていました。今度は園長が鬼のお面をかぶります。そして、子ども達が鬼の園長に豆を投げるのです。「わがまま鬼だぞ、意地悪鬼だぞ」と言いつつ、子ども達を追いかけ、捕まえては「仲間になれ」といいます。子ども達は逃げながらも豆を鬼に投げつけるのでした。ひよこ組やゆり組のお友達はそんなに強く投げませんが、星組にもなると、力をこめて思いっきり投げるので、しかも顔にめがけて投げるので、園長の受難のときです。最後は「もうわがまま言いません。意地悪しません」と言い、悪い鬼でなくなるのです。(数年前には、先生が子ども達に混じって、ひそかに、強く投げていました?今年はいませんでしたが…。)
「豆まき」行事がある合同礼拝では、「誘惑を退けたイエス様」のお話をします。鬼は外にいるのではなく、私たちの心の中にあることをお話するのです。これからも「わがまま、意地悪、欲張り」等の鬼を追い出しながら過ごしましょう、と励ますのでした。「豆まき」は聖書の教えを体で示される行事であるのです。わがままや意地悪の姿を持つ自分に打ち勝つ子ども達に導かれているのです。
聖書の言葉
「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイによる福音書5章44節)