鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

すべての人々の主…(日曜日の意義)

今日は日曜日、キリスト教の人々は神様を礼拝いたします。そのためのお休みの日でもあるのです。日曜日はゆっくりと休み、くつろぐ日でありますが、本来は礼拝をささげることが日曜日の目的でもあるのです。
ユダヤ教では土曜日を安息日としています。これは神様が定められたのです。旧約聖書の創世記に、神様が天地を造られたことが記されています。
「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」(創世記1章1-2節)
つまり、最初は何がなんだかさっぱり分からない状態でありました。もっとも、聖書を書いている人がそれを見たわけではなく、一つの推量として示しているのです。
「神は言われた。『光あれ。』」
すると明るくなります。神様は光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれたと記されます。このようにして神様は言葉を与えては形あるものを造ります。
「水の中に大空あれ。水と水を分けよ。」とも言われます。古代の人は大空の上にも水があると考えていました。雨が降るのは、大空の水が落ちてくると考えたのです。神様は次々に言葉を与えて天地を造られたのでした。この創世記をもって天地が出来たと、聖書は科学的に示しているのではありません。聖書は神様の御心を示しているのです。従って、聖書の天地創造は神様のお言葉が形あるものへと導くことを示しているのです。何がなんだかさっぱり分からない状況の中に神様のお言葉が与えられる。すると形あるものへと導かれてくるのです。この社会を思うとき、いろいろな出来事があり、何がなんだかさっぱり分からない、という思いではないでしょうか。その分からない社会に神様がお言葉を与えてくださっているのです。それにより、形あるものが導かれてくるというメッセージなのです。神様は草木を造り、生きものを造り、最後に人間をも造りました。
人間創造も意味深く示しています。「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(創世記2章7節)。つまり、人間は生まれたままでは、まだひとりの人間ではなく、神様の息をいただいて生きるものになるのです。「息」は他に「霊」の意味もあります。神様のお心をいただいて生きることが求められているのです。
「この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。」(創世記2章3節)。この第七の日は土曜日にあたります。神様が安息されたので、土曜日を安息日とされました。人はこの安息日に、神様の創造の業を仰ぎ見、恵を感謝するのです。従って、安息日にはいっさい働いてはなりません。食事のしたくも、ちょっとした片づけも出来ないのです。食事は前日に用意しておきます。安息日はひたすら神様の御業を示されるのでした。
ユダヤ教の土曜日・安息日に対し、一般的に日曜日のお休みに変わるのはキリスト教の世界からでした。主イエス・キリストは今から2000年の昔に生まれました。だいたい30歳頃になって人々に現れ、神様のお心を示し、御業を示しました。時の指導者たちは人々がイエス様に傾いていくことに妬みを持ち、ついに十字架で殺してしまうのです。それが金曜日でした。そして、三日目の日曜日に復活されます。キリスト教は、日曜日はイエス・キリストの復活日として仕事を休み、神様を礼拝するようになりました。日曜日がお休みとなる根拠であります。
日曜日に礼拝をささげ、神様の「息」をいただき、一週間を社会の中で生きるとき、土曜日ともなると身体的にも精神的にも疲労が蓄積されます。日曜日に神様の「息」をいただいて、新しい姿に復活するのです。日曜日は神様を礼拝し、新しい命を与えられつつ歩みましょう。
聖書の言葉
イエス・キリストは、この人たちと私たちの主であります。」(コリントの信徒への手紙<一>1章2節)