鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

神様は地に臨んで水を与え…(雪国に思いを馳せる)

朝起きて外を覗くと雪がちらちらしていました。積もるのかな、そんな思いをもちました。天気予報では夕方に雪か雨が降るということでした。しかし、一日が終わってみると何も降りませんでした。何も降らなくって良かったのですが、少し雪の降るのを期待していたようでもあります。雪が降ったら大変です。都会の人は雪に対する用心、備えをあまり持っていないことは、宮城から当地に来たとき、つくづく思い知らされたことでした。宮城から転居してこちらで生活しているうちにも雪が降り、積もったことがありました。そしたら道路がどうしようもない状態になりました。雪が積もっているのにもチェーンもつけないで走っています。教会の前の道路はゆるい坂道です。滑って立ち往生する車が続出していました。チェーンをつけている車でも、他の車が立ち往生しているので進めないのです。雪に対する備えを持ってない人が多いことを示されたのでした。
1973年に宮城県の陸前古川教会に赴任しました。古川市は仙台の北にありますが、日本海側のように雪が多く降る地域ではありません。しかし、寒さは厳しいところでした。雪も結構降りますが、深く積もるほどではありません。積もった雪が消える頃に再び雪が降って積もるので、道路は常に泥道でした。朝晩は道路が凍結します。凍結の怖さも良く知らされたのです。
陸前古川教会には4月の暖かくなっていく頃に就任しました。春から夏、夏から秋、そして冬を迎えて初めての雪の日を迎えました。朝から雪が降っていました。神奈川の地で育ち、東京で学び、また生活するときにも雪が降りましたが、東北の雪降りを初めて経験したのです。書斎にいましたが、雪降りが気になって、窓を開けては雪が積もっていくさまを、何故か心を躍らせながら見つめるのでした。
雪の季節になったので、教会員に勧められ、スノータイヤに交換しました。その頃はスパイクタイヤが許されていたのです。スパイクタイヤは凍結に強く、滑らないようになっています。初めて雪の道路をスパイクタイヤで走らせたとき、いささか興奮しながら車を運転したことが思い出されます。わざわざ雪の積もった道路を走らせたり、大人気ないことをしたのでした。その後、スパイクタイヤは使用停止になりました。スパイクタイヤのまま、雪が積もっていなくても走るので、スパイクにより道路が削られ、粉塵が舞い上がるのです。人体上良くないことが分かり、使用停止になりました。スパイクのないスノータイヤになり、気をつけないと凍結道路はすべる場合もあるのです。
その年のクリスマスは大雪となりました。24日夜のイブ礼拝の後はキャロリングです。礼拝に出席できない皆さんを訪問します。ところが大雪となって、足の膝まで積もっています。一歩一歩踏みしめながら教会員の家を訪問し、玄関先でローソクに火をともして讃美歌を歌うのでした。訪問を受けた家ではお土産を下さるのです。中には一升瓶を渡してくれる家もありました。教会員はそれほど多くはいませんが、若い中学生、高校生たちも加わってのキャロリンクでした。教会に戻ると、いただいたお菓子等を食べながらホワイトクリスマスをお祝いしたのです。懐かしい思い出です。
雪道の運転をしていたとき、後ろのタイヤが左に滑りました。私はそのとき、瞬間的にハンドルを左に切りましたので、車は事故を起こすこともありませんでした。間違えてハンドルを右に切っていたら、左に滑っている車は滑りが加速して横転するか、何かにぶつかってしまうのです。この基本は、自動車学校で教えられていたのです。車の免許は東京の青山教会時代に取得していましたが、東北に赴いてから、牧師が園児の送迎のためマイクロバスを運転することになり、古川市で大型免許を取得したのでした。都会の教習所では教えられなかったと思いますが、東北の教習所は雪道、凍結した道路の運転の仕方を教えてくれました。
雪が降るのではないか、そんな思いの中で東北の冬に思いを馳せた今日一日でした。
聖書の言葉
「あなたは地に臨んで水を与え、豊かさを加えられます。神の水路は水をたたえ、地は穀物を備えます。」(詩編65編10節)